※epilogue※

吐いた息は空気中に溜まった。
熱い酸素と僕のかったるい二酸化炭素は、混ざり合おうとするけど跳ね返る。
視線を落とし、投げ出した手を見つめる。
甲には青い血管がのさばり、目線を手前に寄せていくと、柔らかな産毛に覆われた腕が伸びていた。
「暑いな」
僕は隣に寝ている彼が起きていることに気付いて、声をかけた。
昨日の夜の余韻のせいなのか、僕は白い天井を見つめたまま、また溜息を吐いた。
「そっか」
「冷房かけるよ」
僕は枕の横に落ち着いているエアコンのリモコンを掴むと、スイッチを押した。
温度は、25度に設定する。
『地球温暖化防止の為、冷房は28度にしましょう』というキャッチフレーズをよく聞くが、僕は悉くそれを無視してきた。
こんな暑い夏の最中、28度にしたら僕が死ぬ。
「涼し」
エアコンの羽はゆったりと泳いでいて、僕等に冷たい温度を提供してくれる。
風が産毛を舐めるのを感じながら、僕は再び目を瞑る。
無意識のうちに溜息を連続していたのを意識しながら、僕は寝返りを打つ。
「溜息ばっかり」
彼が言う。
「余韻が凄くてさ」
「そんなに?」
僕は彼の方に向き直って、閉ざしてた瞼をふわりと開放する。
彼はいつも通りの表情で、彼はいつも通りの仕草で、僕の髪に触れる。
「こういう非日常的な体験をすると、日常に戻ったときの憂鬱さが半端ない」
「ああ、そうかもな」
彼の笑い声と被さって、僕の溜息が抜けていく。
睫毛が糸を引いて、視界に白い虹を通した。
「今日、やっぱり会社行くのか?」
僕が訊くと、今度は彼が溜息を吐いた。
「俺のスマホ取って」
僕は彼の命令に従い、ベットからスマホに手を伸ばす。
少し距離があって、肩の筋が傷んだ。
「ん」
「あざす」
彼は慣れた動作でスマホを軽く浮かし、ロックを解く。
画面をタップするその白い指は、異常に優雅で恐かった。
「すみません、八柳です」
彼が言うと、スマホの奥底から低い声が聞こえてきた。
恐らく、会社の上司だろう。
「今日、お休みを頂いでもよろしいでしょうか?風邪を引いてしまって―――」
彼はずる賢く、途中でげほげほと咳を吹かす。
「実は、38度ありまして」
驚く声が聞こえた、まあ、大人になって38度も出す馬鹿はそうそういないからな。
僕はその滑稽な演技が愉快に見えて、少し笑ってしまう。
「はい、はい。よろしくお願い致します。失礼します」
彼はぶちり、と通話を切った。
電源を落として、スマホを変な方向に放り投げる。
ごん、と鈍い音がした。
「嘘吐き」
「お前が俺を嘘吐きにしたんだ」
彼は罪悪感の欠片も見せずに、そう言った。
にいっと歯をちらつかせる彼は、まるで子供のような大人だった。
「好きー」
僕は少し恥ずかしくなって、語尾を伸ばす。
冗談に聞こえるといいな、とか思いながら。
「俺もー」
彼は僕を真似して、語尾を伸ばした。
何となく、冗談を見破られたようなそんな気がした。
「結婚、したい」
彼は少し悲しそうに、少し諦めたように、そう言った。
僕は何とも言えなくなってしまって、とりあえず笑顔を作る。
「いつかね」
「この世界のルールが、壊れたら出来るよ」
「ああ」
僕等は、同時に溜息を吐いて、同時に笑った。
大人になっても、どんなに変わってしまっても、それでも、僕は彼が好きで。
溜息を吐いて、その後、欠伸をした。
少し、眠ろう。