※僕※

窓ガラスは、雨を轢いていた。
僕は、そっと空を見上げる。
網戸には雫がへばりついていて、独特の絵を描いていた。
―――なかなか綺麗。
ぱちぱちと火花を散らしたような音が、水溜りの奥底から聴こえてくる。
コンクリートは深い灰色に変わり、滑らかな質感になっていた。
先程まで聞こえていた野球少年達の「バッチコーイ!」は、瞬く間に消えてしまっていた。
雨の匂いが、鼻をつく。
微かに湿った酸素、植物のしなった葉、僕の髪は雨の雰囲気を吸って大人しくなっている。
全ての汚れが密集したような雨の匂いは、僕の鼻腔を通り過ぎ、熱い血流と混濁した。
「雨、か」
僕は飴を舐めながら雨を見つめる。
ほんのりと桃の香りが色付いた飴は、もう少しで溶けてなくなりそうだ。
僕は垂れ下がった長い前髪を振り払い、ゆっくりと瞬きをする。
それがきっかけで、ぼろぼろと涙が零れた。
しょっぱいような辛いようなその涙は、僕の頬に熱く焼き付く。
『ピロン』
僕のスマホは軽く音を立てて、ぶるっと震えた。
その僅かな振動は、部屋中を伝わって僕の鼓膜も震わせる。
「どうだった?」
僕は彼から送られてきたメッセージに既読を付けた。
返事に迷っていると、ぽたぽたと透明な液体が降ってきた。
その液体は画面に浮いたままで、文字を拡大する。
カーディガンの袖でそれを拭ったが、虹色の跡が付く。
「普通だった」
指を滑らせる。
嘘を吐いてしまった、普通なんかでは無いのに。
「悲しかったのか?」
嘘は瞬く間に見破られる。
「別に」
強がった文面なのに、弱々しく見えた。
「なあ、お前ん家泊まり行っていいか?」
「いいけど」
「今な、お前の部屋の前に座ってるから開けてくれないか」
「は」
僕は驚いて、紺色のドアを見た。
勿論、見ても彼がいるかどうかは分からない。
「嘘だろ」
「ドアを開ければ嘘かどうか分かるさ」
はあ、と僕は溜息を吐いた。
涙をカーディガンの袖でごしごし拭って、少し硬いティッシュで鼻をかんだ。
ごみ箱に紙屑を投げ捨てると、それはごみ箱の淵を辿って中に吸い込まれた。
「分かったよ」
僕は銀色のドアノブを握る。
思ったより冷たくて、思わず顔をしかめた。
「いでっ!」
ごん、と鈍い音がする。
続いて、彼のものと思われる突発的な悲鳴がする。
「優しく開けろよ」
振り返った彼は、涙目でそう訴えた。
「まさか、本当に真ん前だとは思わなくてさ」
少し声がたわんだが、気付かれなかったようだ。
「真ん前だって言ったじゃん」
「そうだけどさ」
「まあ、許してやってもいいけど?」
彼はわざと顔を歪めて、高圧的な口調で言った。
「はいはい、とりあえず入って」
僕は笑える気分では無かった。
軽くあしらって、僕はベットの上であぐらをかく。
「どうだった?」
彼はさっきのメッセージと同じことを訊いてきた。
「普通だった」
僕も同じことを返す。
「良かったじゃん」
メッセージとは違うことを言われて、僕は面食らった。
「は?」
間抜けな声が出た。
「だって、お前みたいな魅力溢れる奴の好意に応えようとしない奴なんて、ろくでもない奴だよ」
彼は、彼らしいことを言った。
『奴』という単語が連呼されるのも、彼らしい。
「でも、好きだったんだ」
僕は、僕らしいことを言った。
「そっか」
彼は目尻を悲しそうに下げて、なのに口角は上げて言った。
僕はあぐらをやめて、ごろりと寝転がった。
湿気が染みて十分にじめじめした布団は、僕の体にフィットする。
「俺も、寝たい」
「あっそ」
僕は無言で、横にずれた。
彼は無言で、ベットに飛び込んだ。
2人分の体重に耐えているベットは、ぎしぎしと奇声をあげている。
「実は、好きな奴いたんだ」
「誰」
僕は不躾に尋ねる。
「そんな即答しなくても」
彼はくすくす笑う。
「気になるから」
僕は少し恥ずかしさを覚えて、唇を噛む。
「その人な、最近好きな奴に告白して振られたんだ」
「へーえ、伊井澤?」
「違うって」
僕は伊井澤の顔を思い浮かべた。
まあ、美人な彼女が振られることなんて無いだろうな。
「それで、今俺が告白したらどう思われるだろう」
「うーん、どうだろ。じゃあ猪又?」
「違うって」
僕は積極的に当てにいく。
―――雨はまだ止んでいない。
ばちばちと攻撃的な雨は、窓を割りそうな勢いだ。
「なあ、どう思う?告白するかどうか」
「お前が決めることだろ」
僕は彼から視線を外して、寝返りを打った。
ベットが軋む。
「お前の意見が聞きたいんだよ」
僕は、彼にばれないよう溜息を吐いた。
彼が、僕に気を遣って話題を振っていることは分かっている。
僕が『好きな人に振られた』という悲しみと向き合ってしまわないように、彼が一生懸命話しかけてくれているのは分かっている。
だけど、そんな彼の優しさが何だか恐くて、恐くてたまらなかった。
視界が雲がかり、うるうると溶けていく。
「告白、すりゃあいいじゃんか」
「そうか」
「恋は自己完結させるもんじゃないと思う」
「何でだ?」
ほろほろ涙が流れてしまって、枕に丸い染みが出来た。
「だって、恋って人を幸せにするためにあるもんでしょ。なのに、自分の中で温めてるだけじゃあ勿体無いよ」
「そうか、じゃあ告白するわ」
「おう、頑張れよ」
僕は、この涙が何なのか全く分からなかった。
『悔し涙?』
『嬉し涙?』
『怒り涙?』
『悲しい涙?』
ぐるぐると巡る何かが、涙の原因なんだろう。
よく分からないけど、よく知っているこの感情を、何と呼ぼうか。
揺られ酔って、この感情から逃げようと足掻いている。
「なあ、泣くなよ?」
彼は、僕の肩を掴んで引っ張った。
涙越しに見えている彼も、泣いている気がした―――。
「どうやら、泣きすぎたみたい」
僕は、口角を上げて、一生懸命笑った。
「笑えないよ」
「え?」
彼のいたって真剣な表情は初めて見た。
「多分、俺の言葉のせいなんだろ?」
彼の真剣な表情は、どんどん崩れてどこかに溺れていった―――。