母は眉をひそめて口をつぐみ、父は気を遣って領子と百合子の近況を尋ねた。

……こう言っておけば……それ以上、何も聞かれることもないだろう。

かほりは、突然の外泊を、領子という橘家の禁忌(タブー)を隠れ蓑にした。


雅人と過ごしたことを知っているりう子も、何も言わなかった。



その夜、かほりはなかなか寝付けなかった。

少し寝入っても、夜明け前にはもう目が覚めてしまった。

寝直すことはあきらめて、かほりはレッスン室でチェンバロを調律し、弾いた。

音が……キラキラしている……。

領子との邂逅、雅人との時間。

かほりの中で止まっていた時計が動き出したような気がする。


雅人は、今頃どうしてるかしら。

寝てるわよね。

……私の夢……見てくれてるかな……。

雅人……。



厨房の調理師が、続いてお手伝いの亜子さんが起きて活動を始める朝がきた。

亜子さんに起こしてもらって朝食に向かう途中、ゐねはレッスン室に母のかほりがいることに気づいた。

呼び鈴を鳴らさずに、ゐねは、そーっとレッスン室のドアを引いてみた。

音が洪水のように押し寄せてきた。

……すごい……。

遊園地か、テーマパークのように、明るい賑やかな曲だ。

知らない曲?

……いや……聞き覚えはある?

既存の曲をアレンジしてるのかもしれない。

それにしても、とても楽しそうだ。

いつもの、真面目一辺倒のかほりとは、別人ように軽快だ。

……ママ?

なんだか……変。

素敵だけど……拭い去れない違和感を覚えたゐねは、再びそーっとドアを押して閉めてしまった。


かほりは、何も気づかないまま、弾いていた。

そうでもしないと、今すぐにでも雅人のもとへと走ってしまいそうな気がした。

愛が……想いが……止まらない……。

雅人……。

逢いたい……。



ゐねと千尋が、千歳の車で幼稚園へと出発するのを見送ると、もう、かほりの心は雅人のもとへと飛んでいた。

りう子の出勤を見送ってから、かほりはいそいそと出かける準備を始めた……ら……。

かほりの携帯電話が震えた。

……雅人?

慌てて携帯を見た。

表示されている名前は、武井空。

……馬鹿ね。

雅人が電話とかメールとかしてくるわけないのに……。

苦笑しながら、電話に出た。