え?

こいつが、かほりの身の回りの世話をしてるって?

おいおいおい。

危険すぎるだろう!



「ようこそ。長旅疲れはったやろ。入って入って。ケルシーのケルシュ煮パイが焼き立てやで。」

「ただいま。そらくん。……また、ケルシュで煮たの?普通にシロップ煮でも美味しかったですけど。」

「いやいやいや。かほりにはシロップ煮と紅茶が口に合うてるんやろけど、せっかく彼氏が来てはるんやから、ケルシュで乾杯したいやん?そしたら、ケルシュ煮のほうが、合うで?」


ちょっと、打ち解け過ぎてるんじゃない?


自分以外の男に、こんなにも普通に馴染んでいるかほりを雅人は初めて見た。



かほりは、正真正銘のお嬢さまだ。

そんじょそこらの金持ちとはわけがちがう。

旧華族、それも明治維新で成り上がった部類ですらない。

奈良時代まで明らかな貴族の家柄で、宮家からの降嫁も、宮中への入内も幾度となく繰り返してきた家だ。

筝・篳篥を家業としていたが、維新後、ドイツに留学した次期当主はモーツァルトにどっぷり傾倒して帰国した。

以来、橘家は和楽器のみならず洋楽器の収集、演奏も奨励された。

男子は学業よりも経済や帝王学、女子は家政よりも音楽に重きを置いた家だ。


かほりの父の千秋(ちあき)も、兄の千歳(ちとせ)も、大会社の創業者一族として中枢に参画し続けると同時に、よくわからない団体の名誉職に担ぎ上げられることも多く、忙しい毎日を送っている。

母や、兄嫁の領子(えりこ)は、自身はあまり音楽に関心がなかったが、娘には音楽教育を強いた。

かほりは物心つく前からピアノとフルートとヴァイオリンを、千歳と領子の娘の百合子はそれに加えて家業のお琴と篳篥もお稽古させられる予定らしい。


学校は、幼稚園から高校まで女子しかいないお嬢さま学校に在籍した。

大学は師事していたチェンバリストの推薦で、有名な私立音大に合格した。

純粋培養のかほりには、衝撃的な大学生活が始まった。

ずっと、家族と雅人以外は女子しかいない生活を送っていたかほりには、あたり前に男性がいるキャンパスライフが苦痛で仕方なかった。


せめて同じ大学に雅人がいてくれたら……。

次第にかほりの足は大学から遠のいた。