何度でもあなたをつかまえる

空の顔から表情が消えた。

……去年……無理やりかほりにキスしたことは、空にとって悔やんでも悔やみきれない遺恨となっている。

夏ゼメスターの始まる直前、かほりがケルンに戻って来たときには、誇張ではなく目を赤くして、改めて謝罪した。

寛容なかほりは、全てを水に流し、むしろ黙って帰国した非礼を詫びた。

以来、空はかほりへの想いを完全に封印して、理想的な母のように、世話を焼いている。

表面的には……上手くいっていると言えよう。


今も……本当は、言いたかった。

もうあいつのことは忘れろ、と。

想っても、時間の無駄。

心も疲弊してしまう。

はたから見ていても、何の希望もない恋だ。


……でも、空には、かほりを止める権利はない。

ただ、黙って……かほりが諦めるのを待つことしかできない。


くしゃっと顔を歪めて、空はキルシュを煽ると、おもむろに愛用のヴァイオリンを手に取った。

奨学金と、親からの仕送り、それから日本人観光客ガイドのアルバイトで貯めたお金で買った本物のバロック・ヴァイオリンだ。

現代の複製ではない、バロック時代のヴァイオリン。

一部破損していたモノを、東出の口利きで安くで譲り受け、工房で修理してもらった。

空は、このヴァイオリンをこよなく愛し……弦も全て手作りしている。

……さっき東出が食べたソーセージも、空がガット弦を作った残りの牛の腸で作ったモノだ。

めんどくさくても、音に深い味わいがある。


軽く調音した後、空が弾いたのは……モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」の一節。

アンナが歌える女性パートではなく……死んだ妻エウリディーチェを求めて冥府に下るオルフェオの嘆きの部分だ。



……取り返すべく奮闘したところで所詮バッドエンド……ってことかしら……。

知らず知らずのうちに、かほりは悲観的になっていた。


「いい音だ。……腕前をカバーしてあまりある。」

東出に褒められて、空はうれしそうにぺこりと頭を下げた。


突如、アンナが立ち上がった。

そして、いきなり歌い出した。


……どうやら、イイ感じに酔っているらしい。

こうなると手に負えなくなってしまう。

まるで場末の酒場のように、2人は好き勝手に歌い、演奏した。