「清さん、もう大丈夫です」

琶子は清の腕を抜け出し、膝を折り屈むと、敏子の手を取り、その顔を見つめる。

「お母さん、ありがとう。本を大切にしてくれて」

「そう言えば、おっしゃっていました。『孟母三遷』って本当ね、と。こうしてこの子が作家になれたのも、素晴らしい環境を与えて下さったあの方たちのお陰だわ。本当に感謝しなければ、と」

事務局長の言葉に続けて、突然、敏子がうわ言のように話し出す。

「だから私は、一生琶子の前には姿を現さないと決めたの。あれ以上、愛する我が子を傷付けたくないから。でもね、本当は琶子に会いたい。もう一度抱きしめたい」

「お母さん! 気が付いたの!」

琶子は手を握り必死に話し掛ける。だが、敏子はまたボンヤリ著書を見つめるばかりだ。

「私の言葉に誘発され、昔何度も口にした言葉が突いて出たのでしょう」

事務局長が言う。

「でも、今の言葉は本心です。何度もおっしゃっていました。会いたい、抱き締めたいと」

琶子の心に残っていた、わだかまりが、ゆっくりと溶け、涙と共に流れていく。

「お母さん、私もお母さんのこと愛しています」

静かに立ち上がると、琶子は細く小さくなった母を強く優しく抱き締めた。