真っ白だった。

 目を細めて凝視する必要もないほどに、紛れもなく、言葉にするまでもなく、どこまでも、際限なく、そのキャンバスは真っ白だった。

 何も描かれていないキャンバスよりも、より真っ白だった。

 逆光にも負けないほどに白く、夕闇をものともしないほどに白い。他の何よりも白い。

 純白よりも真っ白い。

 送葉が描いたというあの部屋は跡形もなく白に塗り潰されている。描きかけの絵に手を加えるという次元ではない。

 予想外と言えば途方もなく予想外だ。

 周りの景色も絵の一部になると言った送葉さんの言葉は嘘だったのだろうか。それとも僕の見方が悪いのだろうか。それとも、そういう絵なのだろうか。その真っ白から目が離せない。驚くつもりはなかった。けれど、その白色は僕の覚悟に有無を言わせない。その白は呆れることも、唖然とすることも、驚くことさえも許さない。

 僕はその白に釘付けになる。

 こんな白は見たことがない。

 この世の物ではないような白。

 とても綺麗だった。

「伝達さん」

 送葉さんが僕を呼ぶ。けれど、僕は送葉さんの方を見ることができない。返事をすることもできない。僕は、自制すらできないほどに心の底からその白に魅了されていた。

「そのまま少しずつ、ゆっくりとこちらに渡ってきてください」

 送葉さんは僕がこうなる事が分かっていたのだろうか。いつもと変わらない、送葉とまるで遜色ない口調で、優しく、ゆっくりと、僕に指示を出す。

 僕は言われるまでもなく、片足を既に踏み出していた。

 右足を踏み出す。

 するとどうだろう。今まで見ていた白色が姿を変えた。いや、違う。キャンバスの白色は変わらない。僕の脳内が白色のキャンバスの上に何かを映し出す。

 この橋の景色だ。二人の少女が橋の上でお互い背を向けあって違う方向を見ている。
左足を踏み出す。

 二人の少女が同じ方向を見ている。

 右足を踏み出す。

 二人が一人になる。

 それは送葉と送葉さんの記憶だった。二人の記憶が僕の中にとめどなく流れ込んでくる。

 僕は二人の記憶を鑑賞する。

 二人で一人、一人で二人になった送葉の記憶を鑑賞する。

 歩道と車道を隔てる縁石を超える。

 どこかの店。ここはテニスサークルの新歓コンパで行った居酒屋。僕と送葉が出会った場所。

 大学の中庭。僕が送葉に告白した場所。

 大学の喫茶店。喫茶たより。二人でよく行った場所。

 僕の車。送葉をよく家まで送った。寄せる皺。眠る横顔。寝起きの掠れた声。笑う送葉。

 僕の部屋。送葉の部屋。二人の愛を育んだ場所。

 真っ白なキャンバスの上に一歩踏み出すごとにフラッシュバックする僕の記憶。一歩踏み出すごとに見える送葉の記憶。写真縦、ブックカバー、手紙、葉書、ダイヤモンドリリー。

 ほんの十数秒、時を刻んだだけなのに、ほんの数十歩歩いただけなのに、キャンバスの上には膨大な量の記憶、知識、感情が次々と浮かび上がり、僕の中に流れ込んでくる。

 僕は全ての答えを知る。彼女の全てを知る。

 こんなの物を見せられたら、僕はもう認めざるを得ない。歓喜せざるを得ない。

 送葉がしたことが正しいかどうかは僕には判断しかねる。目の前にいる女の子が送葉になったことで本当に幸せになったかは分からない。狂った人生がさらに狂ってしまっただけかもしれない。送葉にならなければその先には今までの悲劇をないものにできるくらいの幸せが待っていたかもしれない。

 ただ、死んでしまったはずの人が、僕の好きになった人が、今、僕の目の前にいる。

 それだけで僕は今にも泣いてしまいそうだった。

 倫理とか、道徳とか、モラルとか、そんなもの今はどうだっていい。

 僕くらいは彼女を理解してあげたい。彼女の全てを許してあげたい。

 だから――。

 僕は何処までも白いキャンバスにゆっくりと触れる。

「送葉」

「はい」

 僕はキャンバスに手を添えたまま送葉を見つめる。送葉も僕を見つめ返す。

「もう一度初めからやり直そう」

 送葉は麗らかに微笑む。これが僕と送葉が辿り着いた答えだ。