どれほどそうしていただろうか。数時間だろうか、数日だろうか。思考が回復してきたころには時間の感覚がなくなっていた。開けっ放しのカーテンからはオレンジの光が差し込んで僕を照らしていた。送葉(仮)さんと綾香が返ってきたときはまだ日があっただろうか。それとも沈んでいただろうか。それすら思い出せない。

 ポケットから零れ落ちたスマートフォンで日時を確認しようとしたが、電源が落ちていて確認できない。僕はスマートフォンを机に置き、倒れこむ。思考が回復したからといって何かをする気にはなれなかった。すると、待っていたかのように自責の念が押し寄せてくる。

 僕は送葉(仮)さんに送葉の描いた絵を渡してしまった。それも送葉(仮)さんが送葉だと確信を得られないままで、だ。そんなのは赤の他人に送葉の絵を渡したのと同義だ。僕は得体の知れない、ただ送葉と名乗るだけの少女に送葉の形見を渡してしまった。

 僕はもう自分の中の送葉を保っていられない。今でも送葉があの世で僕の弱さに落胆しているのではないかと想像してしまう。僕の中の送葉はもう動き出している。僕の卑劣で、愚かな妄想によって、送葉は送葉でないものになっていく。

 僕の中の送葉が死んでいく。一度動き出せば止まらない。そうなれば自己嫌悪にも拍車が掛かる。

 身体は気だるい。なのに、さっきまで死んでいた頭だけは無駄に働く。本当に無駄に働く。こんなのは送葉が死んで以来だ。

 身体を丸め、頭を抱え、もう一度考えることをやめようとする。けれど、人間そんなに都合よくできている筈もなく、送葉は壊れていき、僕は自分を嫌悪する。

 しばらくそんな負の逡巡をしていると、インターホンが鳴った。だれだろうか。送葉(仮)さんが絵を完成させ、持ってきたのだろうか。ならば出たくない。見たくない。綾香だろうか。会いたくない。今会えばきっと罵(ば)言(げん)を吐いてしまう。

「でんた~つ!」

 ドアの向こうで声がする。

「いるんだろ~」

 男の人の声だ。この声はおそらく涼人だ。

「あ~け~ろ~」

 ガチャガチャとドアノブを動かしてるかと思うと、妙なリズムでインターホンが連打しだした。

「伝ちゃ~ん。引き籠ってないでここ開けてちょうだ~い。お母さん、心配なの~」

 今度はドアをノックしながらビートを刻み始めた。少しすると「すみません」と涼人が誰かに謝るのが聞こえた。

 仕方なく起き上がり、ドアを開ける。開けた瞬間に涼人に肩を軽く殴られる。

「痛いじゃないか」

「いるならすぐあけろよ! お前のせいで笑われるは注意させるは、数秒で恥を二つもかいたじゃねーか!」

「寝てたんだよ」

「ウソつけ」

「なんでそんなことわかるんだよ」

「お前、寝てるときいびきうるせーもん。隣の人とか結構迷惑してるんじゃね? ここ壁薄いし」

「え、ウソ!」

「ほら起きてたんじゃねーか。親友相手に居留守すんじゃねーよバカ。上がんぞ」

 涼人はそう言うと靴を脱ぎ、ずかずかと部屋に入っていく。僕は「嵌めるなよ」と悪態をつきながら後に続く。なんとなく涼人が来たことに安堵していることを悟られたくなかった。

 僕より先に部屋に入った涼人は「なんかむっさ!」と言って勝手に窓を開ける。そして、寝転がり、テレビをつける。リモコンでチャンネルを回し、気になる番組がなかったのか、最初の番組まで戻るとリモコンを置いた。

「飯できてる?」

「まるで自分の家に居るみたいな華麗な一連の動作だな……」

「今日もおかげさまで講義漬けでしたので腹が減ってるの」

「自分のせいじゃないか」

「まぁそんなことはいいだろ。とりあえず何か俺に夕飯を作ってくださいな。文元シェフ。あ、あと酒も!」

 涼人はいつも通り陽気で、自由に見える。悩みの一つくらいあるだろうに、涼人はそれを決して人に見せない。そのうえ、センサーでも備えているのかと思うほど、人が悩んだり、落ち込んでいると、そこに現れる。

「酒なんてないよ」

「嘘だな。前来た時のがあるだろ」

「あ~確かに」

 涼人が前に泊まりに来た時置いていった焼酎が確かにあった。僕は冷蔵庫の横に置いた一升瓶とグラスを涼人に手渡し、簡単なものを作ろうと冷蔵庫を覗く。ほとんど何も入っていない。

「なぁ」

 トクトクとグラスに注がれる焼酎の音と共に、僕を呼ぶ声が聞こえる。

「ん? 水? 氷?」

「いや、まぁそれもそうなんだけど、先客いたの?」

「あぁ、ちょっとね。すぐ片づける」

 机には三人分のコップが置きっぱなしだ。わかってはいたが、先に片付けておけばよかった。そう思ったが、涼人は「ふ~ん」と言うだけでそれ以上何も尋ねてこない。たまに全てを見透かされているんじゃないかと感じるほど、涼人はこういうところで気を遣うのが上手い。

 料理が出来るほどの食材がなかったため、僕はもやしだけが入った即席ラーメンを二つ作り、机に置く。涼人は机に置かれたラーメンを、眉を顰めながら見つめる。

「シェフ、夕飯に自宅でラーメンとはいかがなものかね。しかも具はもやしだけ! 客人がいるというのに。おもてなしの精神を説く日本人としてどうなのかね」

「うるさいな。愛情が籠ってれば何でもいいだろ」

「きっも! ほっも! こっわ!」

 涼人は自分の両肩を抱えながら震えて見せる。

「うるさい。さっさと食え」

「あ~はいはい」

 涼人はラーメンを啜ると「あっつ! あ、でも意外と上手い」と言いながら、その後もラーメンをズルズルと勢い良いよく吸い込んでいく。

「で、今日は何の用なの?」

 僕もラーメンを啜りながら訊く。一口食べるとそれが胃を刺激し、食欲が湧いてきた。どんな時でも限界を迎えれば飯は入るらしい。

「あ、そうそう! お前、なんで今日サボったんだよ」

「サボった?」

「ゼミ」

「ん?」

「お前、今日ゼミだぞ?」

「え、ほんと?」

「木曜だろうが。最低限の連絡すらきてねぇ、最低限最初くらいは来いよぉ、ってイナモンが呆れてたぞ」

 ゼミがあるのは涼人が言う通り木曜だ。送葉(仮)さんと綾香に会ったのは火曜日だ。つまり僕は、自分でもにわかに信じがたいが、丸二日間ほど放心状態だったらしい。何してるんだと自分でも呆れる。腹も空くはずだ。ちなみに、イナモンとはゼミ担当の稲本先生のことで、イナモンという愛称、「最低限」という口癖、そして何だかんだで面倒見が良いところが学生の間で人気の先生だ。

「完璧忘れてた」

 もちろん丸二日放心していたなんて言えるわけはなく、僕は涼人に嘘を付いた。

「珍しいな。お前、そういうとこはそつ無いのに」

「週一しか大学ないからつい。イナモンには後でメールしとく」

「最低限、それくらいするのは当然のことだ」

 涼人はイナモンのマネをしながら最初の焼酎を一気に仰ぐ。ラーメンの器の中身は、汁まで綺麗になくなっている。

 それから、僕と涼人はいつものように他愛のない会話をしながら酒を進めた。

「んで、なんで俺も最低限キャンプに誘わないんだってイナモン拗ねだしてさ~、そっからずっとゼミ中機嫌が悪いの。子供かよって」

 涼人の笑い声が部屋に響く。いつもなら涼人との話は楽しい。けれど、今の僕は涼人の話に対し、相槌を打ったり、作り笑いを浮かべることしかできなかった。そして、涼人がそれに気付かないわけがない。しばらく様子を見ているかのように話し続けていたが、酒が結構な量入ったのもあるのか、ついに我慢できなくなったらしい。涼人は急に話をやめ、僕の顔をじっと見てきた。

「お前、またなんかあった?」

 声のトーンが若干低くなり、表情も急に真剣なものに変わったため、僕は少したじろいでしまった。いつも心配を掛けるのは僕の方だ。

「いや、何で?」

「なんでって、そりゃ見りゃ分かるぞ」

「見てわかるって、そんな人、そんなに多くないと思うよ」

「分かるわ。お前の辛気臭い顔なんて見慣れてるんだから一発だって」

 涼人はさも当然かのように言う。正直、僕も最初から涼人を誤魔化せるとは思っていなかった。それでも誤魔化そうとしたのは後ろめたかったのと、ただの強がりだ。いつも心配かけるのは僕の方だ。それが僕にはもどかしい。

「なんか、いつも悪いね」

「気にすんな。自分の悩みがない分、他の所に充てられるだけだから。あ、単位っていう悩みはあるけどな。あ、あと就活。意外とあるな。まぁいいや。つまり、人の話を聞くくらいの余裕はあるってこと」

 涼人はそう言うと盛大なゲップを発し、新しく焼酎をグラスに注ぐ。

「じゃあ、一つだけ聞いていいかな?」

「酔ってるから、寝て起きたら忘れてるかもだけど」

「それでもいいよ。意見をきかせてくれないかな」

「ちゃんとした意見が言えるかは分からんぞ」

 そう言う涼人は、きっとどんなに酔っていてもしっかり話を聞いてくれる。

「いないはずの人が急に違う姿になって現れた場合、どうすればいいと思う?」

「いないはずの人って、それ、送葉ちゃんのこと?」

 僕は首肯する。ここまで来て誤魔化すこともない。それに、涼人は信頼できる友達だ。僕は涼人に送葉(仮)さんのことを全て話すことにした。