送葉(仮)さんに手紙を書いた次の日、僕は大学に向かった。特に講義などがあるわけではなかったが、朝、目覚めた後に昨日のことを少し考えたら、送葉(仮)さんに手紙を出す前に、少し訊いておきたいことができた。鞄の中には、昨日届いた送葉(仮)さんからの手紙が入っている。僕は大学内にある書店に寄って、今日発売の小説を作者の名前だけを見て購入した後、大学内にある喫茶店に足を向けた。この喫茶店は『たより』と違い、レトロで薄暗い雰囲気はなく、外の光が多く店内に入ってくるように屋外側の壁はガラス張りで、かつ、店内はなるべく壁を減らしたオープンな設計にしてある。大学に入っているだけあって、若者に人気のチェーン店だ。
少し早く来すぎちゃったな。
約束の時間までまだ三十分ほどある。僕はある人物とこの喫茶店で待ち合わせをしていた。今朝、思い付きでメールをしたのにも関わらず、二つ返事で了承してくれた。
僕はアイスコーヒーを頼み、席に着くと、買ったばかりの小説を読んで時間を潰すことにした。
あらすじと序盤だけ読んだ小説の内容は、簡単に言うと恋人を自殺で失った少女の葛藤を描いた物語だった。何故遺書を残さなかったのか、原因は何だったのか、何故自分に相談してくれなかったのかなど、色々と残された謎を追及していき、救いのない答えに自己嫌悪や後悔などといった暗い感情を繰り返す。最後まで読まないとわからないが、全体的に暗い印象なのは言うまでもなかった。いつもはコメディーを交えながらのミステリーを書いているこの作者にしては珍しいテイストだ。
そして、これはまたタイムリーな内容だ。
そう思ったが、僕はすぐに頭の中でこれを撤回した。送葉の死は自殺ではなく、交通事故だ。交通事故だからと一言で片づけられてしまう単純なものだ。謎などない。それに、送葉が死んでからもう半年以上経つのだ。タイムリーというには微妙なところのような気がする。
謎があるとすれば送葉が描いた部屋の絵だが、あれは書き終える前に送葉が死んでしまったというだけで、送葉の死に直接は関係ない。僕が個人的にあの絵の右端に描かれるはずだったものが何だったのか気になるだけだ。
送葉(仮)さんのことは確かに謎だが、今となってはそれこそ本物の送葉とは関係がない。僕と送葉(仮)さんとの問題、謎だ。
そうは思っていても、小説を読み進めていくほどに、僕と送葉を小説の登場人物に投影してしまっている自分がいた。
まぁ、そんなものだよな。物語の登場人物に自分にとって身近な人を感じることくらい珍しくない。
自分なりにそう納得してページを進める。だが、読み進めるほどにどうも心地が悪くなってしまい、僕は途中で本に栞を挟んだ。内容が面白くないわけではない。僕が作者の名前だけを見て買うことを決める作家だ。いつもと違う作風だとしても信用は厚い。これは僕の心理衛生的な問題だ。
アイスコーヒーをストローで啜る。プラスチック製のコップの中で氷がカラカラと音を立てる。同時に、送葉とこの喫茶店に来た時の光景がふと脳裏に浮かんだ。送葉はコップに入っている氷をよくかき回していた。
「お待たせ」
そんなことを思い出しながらコップの中の氷で遊んでいると、椅子が引かれる音と共に女性の声がした。僕は氷から視線を声の方に移す。僕が待ち合わせをしていた人物。送葉の友達。送葉の事故に立ち会った人物。久保田(くぼた)綾(あや)香(か)。
会うのは送葉の葬式以来だ。以前からそれほど頻繁に会っていたわけではないが、送葉に紹介されて初めて会った時から友達としての馬が合い、すぐにお互いタメ口で話すようになった。
しかし、半年ぶりで、しかも、送葉が死んでから初めてとなると少し気まずさを感じてしまうのは仕方のないことだろうか。
「久しぶり」
僕が呼び出したのだが、実際に会って、なんて声を掛ければいいのか悩んでしまう。待っている間に考えておけばよかった。と後悔しながら当たり障りのない言葉を選ぶ。
「久しぶり……」
気まずさを感じているのは相手も同じなようで、普段は快活な印象を受ける彼女も、口調にキレがない。椅子を引いたはいいが、座るのを躊躇(ためら)っているあたりにも彼女の今の心境を感じられる。
「とりあえず座りなよ。飲み物買ってくるから。何がいい?」
「そんなのいいよ」
「僕が呼び出したんだから、気にしないで。何がいい?」
「じゃ、じゃあアイスコーヒーを」
「何か入れる?」
「ミルクを少し」
「オッケ。じゃあ座って待ってて」
僕はそういうと財布を持って席を立った。気まずさを紛らわすための時間が欲しかった。
アイスコーヒーを受け取り、コーヒーフレッシュを注いで席に戻る。
「ありがと」
僕が綾香の前にコーヒーを置くと、彼女は小さくそう言った。彼女も薄々察しているのだろう。今日僕に呼び出されたのは何か送葉に関して訊かれるのだろうと。
「今日呼び出したのは――」
「送葉の事だよね、分かってる」
綾香は僕の言葉を遮ってそう言った。まるで何かに怯えているような、早くこの場から立ち去りたいと思っているかのような印象を受けた。その証拠に、彼女は未だ僕と目を合わせようとしない。
「……うん」
「何でも訊いてよ。時間だけだったら伝達よりも送葉といる時間が多かったんだし、伝達の知らない送葉もそれなりに知ってるつもりだし……」
綾香は依然ぎこちない口調でそう言った。
ああ、そうか。
綾香は後ろめたいのだ。送葉が死んでからずっと、僕に対して、そして僕以外にも送葉を大切に思っている人たちに対して、後ろめたさを感じていたんだ。
綾香から送葉の死を知らされた時の情景が思い浮かぶ。当時、たまたま一緒にいて、たまたま送葉の死を目撃しただけなのに、「ごめん、ごめん、ごめんなさい」と何度も電話の向こうで謝り続ける綾香を気遣う余裕が、あのころの僕にはなかった。彼女に落ち度はないはずなのに、内心で彼女に八つ当たりしてさえいた。綾香にとって送葉は大切な友人であることは言うまでもないのに、僕が一番悲しいのだと心のどこかで思っていた。そして、それが間違いなのだと今、気付いた。
「ごめん」
僕がそう言うと、ハッとしたように彼女は顔を上げた。久しぶりに綾香と正面から向き合った。
「なんで謝るの」
「綾香も辛かったんだよね。正直、今まで気付けなかった。自分の事でいっぱいいっぱいだったんだ」
綾香は黙り込む。僕は話を続ける。
「送葉が死んだのは綾香のせいじゃないよ。たまたま一緒にいただけじゃないか。たまたま送葉の事故を見てしまっただけじゃないか。だから、もう自分を責めるのはやめてよ。そんな必要、綾香にはないよ」
「――ごめん、ごめんね」
この謝罪はきっと、僕に気を遣わせてしまったと思っているのだろう。綾香は優しい。送葉は彼女のような優しい友達を持つことができて幸せだったと思う。
綾香のアイスコーヒーが一滴の涙によって波打つ。それを皮切りに、綾香の目から涙が溢れ出した。
こんなことになる予定ではなかったのだが、結果的に、彼女が背負う必要ない罪の自覚を取り除くことができたのなら、良かったと思う。
綾香の異変に気付いた周りの学生がざわつく。綾香が泣く姿は、このオープンな造りの店内では丸見えだ。瞬く間に店内にある視線が僕たちの方に向けられた。
「場所変えようか。時間、大丈夫?」
綾香は小さく頷く。
「手、貸そうか?」
綾香は首を横に振る。綾香は強い。僕なんかよりもずっと。そう心の底から思った。