それから山中と田中は図々しく晩ご飯まで居座り、おかげで七人分の夕食を作ることになったママはすっごく大変そうだった。目を離すとウーちゃんの投げ合いを始めてしまう山中と田中を見張るのに必死で、ぼくはそれが最後の晩餐だということに気づく余裕もなかった。
山中と田中が帰り、やっと家の中が静かになった頃、ぼくはママに言われてウーちゃんの餌やりに庭に出た。
ウーちゃんのしっぽのようにまんまるい満月が、芝生の上に光を降らしている。ウーちゃんはぐったりとした顔を微かに上げてぼくを見た。耳をピクピク動かしながら、何か言いたげだ。やっぱり似ている。
「マー君、」
「コウタ、餌やりか?」
木戸が開き、可菜子さんを送ってきた高山が庭に入ってきた。
「今日はやけに月が明るいな。まんまるだ」
そう言いながら、ぼくの隣に腰を下ろす。
「コウタが来てからもう一週間になるなあ」
そうだ、ぼくは・・・ぼくの使命を終えたんだ。約束の一週間が、終わる。ぼくは帰るんだ。
「ホント、弟みたいに思えてきてさ、変な気分だ」
「お兄ちゃん、幸せ?」
「ああ。コウタのおかげだな。あ、中山と田中のおかげでもあるかな」
高山は思い出したように笑って、草をむしってウーちゃんの檻の中に投げ入れた。
「そっか、よかった。これから、いいことがきっとたくさんあるよ。でも悪いこともあるかもしれない。だから、忘れないでね、今日起きた全てのこと」
「今夜の月は本当にきれいだ。今コウタと話したことも、忘れないよ、ずっと」
明日、帰るんだ。ママには何て言おう。行かないでって言われたら、ぼく・・・でも、そんなことありえない。ありえないんだ。
見慣れた天井を見上げながら、ぼくは自分に言い聞かせるように何度もつぶやいた。目が冴えて、眠れそうにない。しかし、静かな夜を強引にかき分けて来たのは、またもやあの鳥だった。今回は初めから二匹いる。
「息子さん、息子さん、起きろっス」
「・・・起きてるよ」
「帰るっス」
「帰るのは明日だろ」
「今のほうが都合がいいっス」
闇の中でハチドリはしきりに羽をばたつかせ、微かに光るくちばしの先から、早口でまくしたてる。
「待ってよ、ぼくはまだ、」
「神さんからの命令っス。逆らえないっス」
「ほんの少しでいいから、時間をくれない?少しでいいんだ」
二匹は顔を見合わせ、もう一度ぼくの顔を見た。
「少しだけっスよ」
「神さんには内緒っスよ」
ぼくは客間を出、音を立てないように注意を払ってリビングを通り、高山(父)とママの寝室に忍び込んだ。
窓から月明かりが差し込み、ママの顔を白く照らしている。ベッドの脇にひざを付いて、ママの顔を覗き込んだ。優しく微笑んでいるような、ママの寝顔。
もっと話せばよかった。もっと抱きしめてもらえばよかった。もっともっと一緒にいたかった。ぼくはママの子なのに、どうして離れなければいけないの?
「息子さん、行くっスよ」
「嫌だ」
「冗談はやめてくれっス」
空中からぼくを見下ろしてハチドリは言う。
「冗談なんかじゃない。もう少しだけ、何日かだけでいいんだ」
「息子さん、それだけはだめっス」
「だってぼくが帰ったら、ママはぼくの記憶、消されるんだろ?その前に、」
「息子さん、わがまま言っちゃいけないっスよ。今だって、一週間分の仕事、ほっぽらかしてるんっスよ」
「そのせいでこの人たちの将来に影響が出ることだってありえるんっスよ」
ハチドリはくちばしで高山(父)とママを交互に指した。
「自分を甘やかしちゃいけないっスよ」
「坊ちゃんは、神様なんスから」
ぼくは、神。生きとし生けるものを守ってゆく使命。生まれた時から定められた、ぼくの使命。
「あっ、神から通信っス」
ハチドリが慌ててオーロラヴィジョンを広げた。ママと高山(父)は寝入ったままだ。
「息子よ、もう帰っておいで。パパは随分寂しいよ。仕事は済んだようだね」
「パパ、ぼくは、聞きたいことがたくさんあるよ」
「私も、お前と話がしたい。帰っておいで。ママの記憶を消しはしないから」
「どういうこと?」
そこでヴィジョンは切れた。記憶を消さないって、可能なの?
「息子さん、大穴が開くっス」
ハチドリに促されて、立ち上がった。ママの頬にキスをして、さよならとつぶやく。さよならママ。ぼくのこと、忘れないでね。またね、ママ。
寝室のドアを閉め、ハチドリが持ってきたランドセルを背負い、目を閉じた。それは来た時よりもずっと早く感じた。
頬に当たる風に気づいて目を開けると、一週間前にぼくが入った穴の横に立っていた。中を覗くと、遠く遠くに、ほんの微かに、街の灯りが見えた。ぼくがさっきまでいた街。
ぼんやりしていると、ツインズの弟まさるがぼくをランドセルごとくわえた。
「何すんだよ離せよ!一人で歩けるって!」
ジタバタしてはみたものの、宙吊りにされちゃ手も足も出ない。なすがまま、ぼくは通称“神様ルーム”行きエレベーターに放り込まれた。扉が閉まる時に見たツインラクダは、にこりともしていなかった。
ウィィンと小さな音をたてて真っ白な雲が上ってゆく。ぼくを乗せて。ぼく一人を乗せて。さっきまではニンゲンの世界にいたことまで置いてきてしまったみたいだ。
最上階は神様ルームだけ。エレベーターを降りて白い廊下を通り、白い雲のドアをノックする。
「入っておいで」
ドアが消え、ぼくは見慣れた“懐かしい”空間に足を踏み入れた。白いなあ。天井も床も壁も全部。こんなに白って眩しい色だっけ。目がくらむようだ。
「お座り。大仕事を良くやり遂げたね。偉かったよ。さすが神の子だ」
パパに促されて慌ててソファに腰掛けた。何かぼく、変だ。妙に緊張してる。
そしてパパはにっこり笑って言った。
「試験は合格。これで君は正式に次期神様だ」
「え?じゃあ今回失敗していたら、」
「そう、別の候補を立てないといけなかった」
「言ってよ!そういうことはさあ」
「言っても言わなくても結果は同じ。だったら余計なプレッシャーは少ないほうがいい。そうじゃないかな?それとも、神様になりたくなかった?」
ぼくは首を振った。
「パパ、ぼくはママに会ったよ。ママはぼくのこと、忘れてた」
「うん、ここから見てたよ。ママのこと、嫌いになったかい?」
「嫌いになんか、なってないよ!ママはママだもん。優しくて温かくて、想像通りの人だった。でも、もう会えないんだよね」
「大丈夫。会えなくても、ママは君のことを忘れない。君がママのことを忘れなければ、絶対にね」
パパはデスクから立ち上がり、広い部屋の中央にぽつんとある、ぼくが座っているソファの隣に腰掛けた。
「パパは寂しくないの?ママと離れて」
「いつもママのことを見守っていられるから、寂しくないよ。これはずっとずっと続いている神界のルールなんだ。ニンゲン界からお嫁さんをもらって、後継者を生んでもらう。そしてまた彼女をニンゲン界に帰す」
それを聞いて、ぼくは声が出ないほど驚いた。いろんな感情が、頭の中で雷のように閃いた。
「残酷じゃないの?それって」
「パパも、そのことを知った時はびっくりしたよ。だってそれだけを聞くとニンゲン界からお嫁さんを“借りてくる”みたいだもんな。でも、無理矢理ってわけじゃないぞ?自分でニンゲン界に下りて、自分で探さなくちゃいけない。もちろん相手の合意がなければ連れては来れないんだ。全てを知った上で、君のママはここに来てくれた。随分手間取ったよ。歴代最高は三十年。ぼくはその十分の一で、まあ早いほうだ。別れなければいけないのは、それはもちろん寂しかったし、悲しかったよ。ママもそう言ってくれた。でも、その時に初めて、本当の使命を自覚するんだ」
「本当の、使命?」
パパが、じっと、その深い色の目でぼくを見つめる。ぼくはパパの瞳の中に棲んでいる、遠い記憶に耳を傾ける。それは神界に時々吹く、“波の風”みたいだと思った。
「この広い宇宙には、君も知っているように地球に近い環境の星や、もっと高度な文明や高い知能、身体能力を持つ生物がいる。しかし、地球に住むニンゲンが一番デリケートで、その心は美しいんだ。美しさゆえに脆いところもあるけどね。わかるかい?ニンゲンを守っていくことは宇宙全体を守っていくことにつながるわけだ。つまりニンゲンがベーシックだということ。ニンゲンを手本にしてこの宇宙の生物を見ていくことが一番うまくいく。だから地球は日夜研究されている。それが、神が後継者の血筋を分けてもらっている所以だ。愛する人、愛する息子の血を分けたきょうだいであるニンゲンが住む地球を守ることが、自分の神としての使命だと、君もいつか気づく時が来る」
「そうなの、かなあ」
パパの話してくれたことは、まだまだぼくには実感として湧いてきそうにないや。でも、そう思える日がいつか来るといいな、と思った。
「ニンゲン界はどうだった?」
「想像した以上だったよ!カラフルだったし。やっぱりこことは全然違う。でも、不思議とすーって入っていけた」
ここでは、見る角度によって広さ高さの全く違う部屋が並び、一定の温度と湿度と空の色、そして七色の風が吹く。そしてニンゲンの形をしているのはぼくとパパだけ。白くて透明な、一つの変化しない世界。それが神界だから。
「ママのおかげだね」
「そうだね」
パパがぼくの髪の毛を優しく撫でる。その手の感触が、ママのそれと重なる。急に涙が溢れて止まらなくなる。“泣いた”のは初めての経験だったから、自分の目から水分が出てくることにとまどった。そんなぼくを、パパは懐かしそうに目を細めて見ている。涙は簡単には止まらないもの。液体で、無臭で、少ししょっぱい。
「一週間、短かったなー。いろんなことがありすぎて、何だったんだろう、あれは」
「そんな感傷に浸っている暇はないぞ、息子よ!その一週間分の仕事が山となって、マー君のデスクが押しつぶされたって報告をさっき受けたよ!」
豪快に笑って、パパはぼくの肩をバッシバッシ叩いた。
「早く着替えて仕事に戻れい!」
その時ぼくは、白い部屋を見渡して思ったよ。ニンゲンの子供が心底羨ましい。仕事をしなくていいなんて。
でも仕方ないのさ、ぼくは神様だから。