「おっそいよー達郎君」
「なんなんだよお前はー。またいんのかよ。もしかして毎日?うっわ、マジ勘弁。俺をノイローゼにする気か」
「なによなによその言い方~」
「まあまあ」
 来るなり店先で言い争いを始めた私たちを、ハゲ丸店長が笑いながら仲裁してくれた。「今日は返品のやり方を教えてあげてね、ランゼン君」
達郎君はこっち来い、と言って店の隅に積み上げてあるダンボール箱を指差した。「ボサッとしてんな」
 達郎君、口悪い。その意外性にやっぱりメロメロ。
「フンフフンフ―ン」
 調子に乗ってスキップしてたら、隅に積んであった文庫本につまづき、前方の新刊の列に突っ込んだ。
「うひゃあ」とか「うへえ」とか言ったと思う。何か考えるよりも先に、体が動いた。なんとか私の膝くらいの低い棚に手をつき、つま先でブレーキをかける。スキージャンプの飛んでいる時の格好を想像してくれたまへ。自分のことながら、バスケで培った反射神経の良さにちょっと驚く。そして気付く。ヅ、ヅラが危ない。
「おい、何だよ今の声は」
 達郎君の声を、腰の辺りで聞いた。
「ななななななんでもなーい、トトトイレっ」
 急いで店の奥のトイレへ駆け込んで鏡をみた。心臓バクバク、肺ゼイゼイ。ずれてる・・・ビミョーに。もう少し派手に転んだら前と後ろが逆になってた。危うい危うい。結構大変だな、ヅラも。おぢさんたちの気持ちがまるでわかったよ。ガチャリ。
「「あ」」
トイレのドアを開けると、外には達郎君が立っていた。ちょっとだけ、お互い無言。
「どうしたんだよ、いきなり」
「いやあのその急に尿意が」
 私が言いにごると、達郎君の視線がちょっと漂って、私の足元に落ちた。
「足、血ぃ出てるぞ」
「あ、本当だ。痛い!」
 うわあ膝から血がドクドク出てる。棚にぶつかった時だ。気がつかなかったぁ。
「今頃気付くなよ。今まで何してたんだよ」
「し、死ぬぅ」
「てーんちょー」
 達郎君が店長の方を向いて大声を出した。
「流血者一名出ましたー救護しまーす」
「了―解、すぐに処置に当たるようにー」
「ほら、休憩室直行」
 こう見えても(どう見えても?)血はだめなんですよー。自分のでもだめなんですよー。
「おい、しっかりしろ、傷は浅いぞ」
 休憩室とは名ばかりの、着替え室兼掃除用具入れ。狭いことこの上ない。救急箱を出してきて、椅子に座った私の膝を消毒してくれながら、達郎君はつぶやいた。
「うわー出てくる出てくる。血が」
「ひぃ~言わないで」
「なんだお前、血ぃ弱いのか?」
 イヒヒ、と達郎君は笑い、消毒用に使っていた脱脂綿を私の目の前に持ってきた。
「ギャー」
「美都、おいっ」
 達郎君が初めて私のことを名前で呼んでくれた・・・し、幸せ・・・。
「気付いたか?おい?」
「達郎君」
「店長、美都、意識戻りましたー」
 遠くで店長の、休んでていいよ、の声。そういえば私、バイトしてたはず。
「まだ起き上がんな」
 達郎君の困った顔。その後ろの薄ぼけた天井と、まだ慣れない電球の白。
ねえ、何がそんなに悲しいの?
「救急車呼ぼうと思ってた。さっきはごめんな、ふざけすぎた」
 私を覗き込む達郎君の、天然ものの白い肌が眩しい。ちょっととがった耳も、くっきりとした二重の瞳も。この人が欲しい。だめ?神様。私のものにしたい。独り占めしたいよ。
「おい?聞こえてるか?」
「達郎君、私のこと、どう思う?」
「は?」
「なんでもないっス」
 私はゆっくり起き上がった。手をついたフローリングが冷たかった。
「もう帰るか?」
「大丈夫、店長に治りましたって言ってくる」
 まだ、きっと早すぎるね。達郎君を困らせてしまうばかりだ。

「美都、先生呼んでたよ?」
 休み時間、トイレから戻ってきたハルに背中を叩かれた。担任の宮古先生はバスケ部の顧問でもある体育教師。厳しさと優しさのメリハリのある、学校の中で一番先生っぽい先生だ。何の用事か見当もつかないまま、急いで職員室に向かった。宮古先生は時間に厳しい。
「小山」
 職員室の隅の相談用の小スペースで向かい合って座ると、意味もなく緊張した。
「最近、何か悩み事でもあるの?クラスでも部活でもぼーっとしていることが多くて上の空だし、前にも増してミスが多くなってる」
 人からはよくぼーっとしてるって言われるけど、悪いことだとは思ってなかった。でも先生、怒ってる。
「一人がそうだと、全体が浮ついた雰囲気になってしまうのよ?試合も近いんだから、気持ちを引き締めて。いい?」
 よく頑張ったって撫でてくれる手の平も、小山は楽しいなって笑ってくれる笑顔もない。体中から血の気が失せていくのを意識した。私はやっとのことでうなずき、促されて席を立った。下を向きながら廊下へ出ると、誰かの笑い声と軽やかな足音が響いていた。
「今日一日元気なかったね。宮古先生に何言われたの?話してみなって」
 今日は部活がお休みの水曜日。バイトもお休みをもらった。ハルと歩く駅までの道。もう夜みたいに暗い空。
「要約すると、浮ついてるって」
「そんなのいつものことじゃん。私なんか美都よりもずっと浮つき気味よ」
 がははとハルは笑った。私は笑えなかった。
「ハルは浮ついててもいーじゃん。バスケうまいし頭いーし。浮わつく資格あるよ」
「美都?いつまでうじうじしとっとね。元気だしんしゃい。そげに気にすることなかね」
「何弁?」
 ハルはふんわり笑った。
「ハイ、ホカ弁」
 そう言ってハルは、私の大好きなミルクチョコレートを三つくれた。金色のセロファンに包まれた、甘いお菓子。ホカ弁よりもあったかいよ。
「うわあぁ~ん。私、みんなの重荷になってるの。みんな私のせいなの~」
 ダムが崩壊したみたいに、私は泣いてしまった。止められなかった。止めたくなかった。
「ほーらほらほら泣くでねえ、おなごは強くならにゃいかんね」
 ハルのダッフルコートに顔をうずめて、泣けるだけ泣いた。
「どうしたらいいの?みんな私のこと、うざったいって、本当は思ってるの?」
 ハルは何にも言わず、私をぎゅっと抱きしめた。ハルのダッフルコートの色が変わって、だんだん冷たくなっていく。
「・・・ねえハル?みんな見てる」
 夕闇の公園のベンチで、女の子が二人で抱き合ってる。見ない人はいないよね。何か、恥ずかしくなってきた。
「見られたっていいよ、かまわない」
「ハルは、強いね」
「強くないよ。美都と一緒」
 私の荒い息が落ち着くまで、ハルはそのままの体勢でいてくれた。
すとん、と夜が落ちてきて、公園の街灯がついた。鼻の頭が冷たかった。
「ハル、」
「何?」
「漫画とかでね、恋と勉強の両立、なんて悩む主人公が出てくると何でって思ってた。でもわかった。気持ちを二つにわけるって難しいんだなって」
「最初はね、きっと難しいと思う」
 ハルのダッフルコートから顔を離して、木のベンチに座りなおした。夜風に吹かれて、裸の桜の木がおおげさに揺れた。
「達郎君が好き。バスケも好き」
「だったら両方あきらめちゃだめ」
 私は頷いた。
「何ボケーっとしてんだよ」
 余りの声の大きさに何人かのお客さんがこっちを見た。そうだ私はバイトしてたんだ。深緑色のエプロンをかけて仁王立ちしている達郎君がいた。
「さっきから同じ本四十分もはたきかけてるだろ」
「そうだっけ?だってこの本汚いし」
「そういう装丁なんだよ。どうしたんだ?」
 達郎君が私の顔を覗き込む。その水晶の瞳で。どうしていいかわからない。何て言ったらいいかわからない。でも、至福。ずっとこの目の中にいたい。
「オーイ、あがっていいよー」
 外から聞こえる店長の声で我に返った。
 休憩室でエプロンを脱いでいると、「これ」と言いながら店長が入ってきた。店長の手には、四角くて白い箱。
「よかったら二人で食べて。友達が来て置いていったんだよ。ぼく、ダイエット中だから」
 店長は私に、にこにこしながら箱を渡した。私もつられて笑った。
「じゃあ行くか」
 鞄を持った達郎君がドアを開けながら振り返った。店内から漏れる明るい光が眩しい。
「一緒に帰っていいの?」
 達郎君は不機嫌そうな顔をして、店先で私を待っていてくれた。
「店長ありがとう。さよなら」
 店長は、返事の代わりににこにこ笑った。
「何してたんだよ」
「店長にありがとうって言った」
 外は真っ暗でも心は明るかった。達郎君と一緒に歩ける。絶対に死ぬまで忘れずにいよう。達郎君のグレーのマフラーも紺のコートも、ドライアイスみたいな白い息も。
「何にやにやしてんだ」
ゆるんでしまう顔を毛糸の手袋で押さえた。風がビュウと吹いていった。
「何でもないッス。あ、ケーキどーする?」
 達郎君は黙って団地の近くの小さな公園を指差した。ブランコと鉄棒と小さな滑り台があるだけの公園。私達は近くの自販機で温かい紅茶を買って、ギシギシいうブランコに座った。
「うわ、おいしそ」
 箱を開けた瞬間、達郎君の顔がぱっと変わった。子供みたいなワクワクした顔に。
「ケーキ好きなんだー」
「ああ好きだよ、悪いか」
「イメージと違ーう」
「ハイハイ星がきれいだね」
「ごまかしきれてないーい」
 達郎君の横顔が、街灯に照らされているせいかちょっと赤い。それで、ますます好きになってしまった。星も灯りも達郎君もとてもきれい。きれいすぎて切ない。もう手が届かなくなりそうで。どんどん水位を上げる思い。いっぱいになって許容量を超えてしまいそうで苦しいよ。ねえ、気付いてる?
「そんなに見るなよ」
「ごめん」
「何深刻な顔してんだ」
 顔を上げた達郎君と目が合う。やっぱり、遠い。こんなに近くで一緒にいるのに。
「達郎君、ブランコからはみだしてる」
「仕方ねーだろ」
 言ってから、達郎君は少し笑った。
「俺、これとこれ」
「あー選ばしてくれなかった!強制じゃん」
 達郎君は、嬉しそうにショートケーキとフルーツプディングをナプキンの上に乗せた。
「チョコレートケーキ好きだろ?アップルパイも」
「好きだけどさー。普通、女の子に先に選ばせるでしょ」
「うるせー食うぞ」
 言って三秒後にはもう達郎君の膝からケーキは消えていた。
「チョコレートケーキ食べる?」
「食べる」
 また三秒。
「食い足りねえ」
「どれだけ食べたら足りるの?」
「十個はいける」
 目を合わせて笑った。笑うっていいな。一人で笑うよりも二人がいいな。
「何かあったのか」
 まだ笑いの止まらない私に向かって、達郎君は言った。気にしてくれたんだ。だから一緒に帰ってくれたの?
「調子に乗りすぎて、先生に怒られちゃった」
「やっと気付いたのか、遅いぞ」
「やっぱりそうかなあ」
 スカートから出てしまう自分の膝を、かばうように包んだ。寂しいヘッドランプが時折、通り過ぎた。
「俺なんてしょっちゅう言われてるぞ?いい気になるなって。でもその気になんないといいプレーができないんだよな」
 そう言いながら、横顔の達郎君はゆっくりこっちを向いた。達郎君のずっと後ろにある星たちが、急に近づいて見えた。
「そんなもんかな」
「そんなもんだろ」
 この人は、私よりもたくさん何かを知っている人だ。私が持っていない何かを持っている人だ。だから私は惹かれたんだ。
「ナーバスになってると悪循環だぞ」
 紅茶の最後の一口を飲み干し、ゴミ箱に投げた。
「ナイッシュ」
 缶は一直線に楕円形の筒に収まった。もうきっと大丈夫だ。
「行くか」
 私は頷いた。寂しかったけど、頷いた。
「美都さ、姉妹いるか」
「一人っ子だよ、どして?」
「別に・・・そんな目で見るなっ」
 時間も時間で、人けが少ないプラットホーム。私は達郎君が乗った電車のドアの前に立った。明日は火曜日だから、バイトはお休み。会えないね。たった一日だけなのに。
「バイバイ」
「じゃあな」
 閉まりゆくドアが悲しかった。私と達郎君を遮断して電車がいってしまった。恋ってこんなに切なかったっけ?胸の奥が変な感じにしびれてる。私に魔法が使えたら、何度でも時間を戻すのに。でも、バイバイ、またね。