金木犀のエチュード──あなたしか見えない

涙が拭いても拭いても溢れてくる。

詩月くんの演奏姿を見逃さないよう、詩月くんの演奏を聴き逃さないよう、何度も涙を拭った。

詩月くんが「懐かしい土地の思い出」最後の1音を弾き終えたーー客席は静寂したままだった。

詩月くんはシーンと静まり返った客席に向かって、深々と1礼しゆっくりと顔を上げた。

詩月くんが何もない、沈黙したままの会場を去ろうと、1歩足を踏み出した時、拍手と共に「ブラボー」ひときわ低く凛とした声が響いた。

その声が非常口ランブの下辺りからしたーーと思った時、会場のあちらこちらから拍手と歓声が拡がっていった。

詩月くんは再度、客席に向かって1礼した。

まだらだった歓声と拍手はしだいに大きくなり、観客が総立ちになり口々に歓声が上がった。

その歓声と拍手は詩月くんの前の演奏者のものよりも、ずっと大きくなった。