「名前教えてよ。」


ミシンを踏んでいた手を止めた。
いつもは黙って後ろで珈琲を啜っているだけの猫が、唐突にくちを開いたから、俺は狼狽せずにはいられなかった。

名前。名前…ね。

俺は振り向かずに口を尖らせた。


「くっそ今更じゃん。」

「そうだけど、そうだから。
これ以上間空くとさ、あたしも聞き辛いから。
今のうちに教えといてよ。いつまでもアンタとかお前って呼ぶの、なんか不便。」


俺は自分の名前が嫌いだ。
縫い物を再開する。彼女の問いにはこたえずに。

「名前」は嫌でも俺にいろいろなことを思い出させる。
呼ばれる度に、嫌な思いはしたくない。


「…いいよ。言いたくないなら。でもそれなら勝手にあだ名つけて呼ぶから、絶対返事しなよ。」


彼女は沈黙からなにか読み取ったらしく、俺にむかってそう言った。胸を撫で下ろす。
猫は、空気をよむのが上手い。
お陰で俺はストレスを感じずにいられる。


「あんまり、変なのはやめろよな。」

「鶏。」

「は?」

「鶏って呼ぶから、宜しく。」


振り向けばニヤリと笑った猫が、珈琲を啜って俺を指差していた。
ああ、さてはずっと俺のことを鶏っぽいとか思ってたな。
俺は髪の赤色の部分を触りながら、鶏の鳴き声を真似た。


「じゃあ、お前猫な。どうせ俺が教えないとお前も名乗る気ないだろ。」

彼女は返事の代わりに猫の鳴き声を真似た。
可愛らしい子猫とは程遠い、威嚇するような鳴き声だ。


ああ可愛くない。


俺は小声で呟いた。後頭部にスリッパが飛んできた。
クソイタかった。

けれど。


鶏小屋に猫。
ちょっと面白い気がした。