車も人もなにもない。深夜は真っ暗で静かだ。

微かな湿気が髪にまとわりつく。
けれど風があるせいでそれすら心地よく感じた。ひんやりと肌寒い秋の空気は、雨の匂いに満ちている。

高校を卒業してからというもの、夜の散歩は習慣となっていた。もう補導される心配はないし、深夜徘徊がバレて困る学校にも属していないから、私はただ自由を謳歌していた。

両手を広げ、歩道をゆっくりとじぐざぐに進みながら口笛を吹く。
右手に缶コーヒー、左手にはスーツケース。

今ここは私の楽園だ。私だけの。

けれど気づいていた。
さっき寄ったコンビニからずっと、誰かがついてきている。友人でもなければ知人でもない。見覚えのない、冴えない男だ。
口笛を鼻唄にかえる。
手のひらにじっとりと汗をかき、私は緊張していた。一応女だから、こういう状況が怖くないといったら嘘になる。

前髪をぱっつんに切ってから、どうもおとなしそうに見えるらしく、第一印象での男ウケがよくなった。特に、変な男のストライクゾーンに入るようになったようだ。

大人しく無抵抗にみえる女が好かれるのは、わかるような気がする。
ようは、ノーを言えない人間…自分の好きにできるお人形がほしいのだ。

そう思ったら、背後から刺されるかもしれないという恐怖心よりも怒りのほうが勝った。
そうか、私は思い通りになると思われているのか。

段々足音は近づいてくる。
怒りの合間に一瞬、僅かに存在していた乙女心がむくりと頭をもたげた。

ナイフを持って襲いかかる男、成す術もなく目を閉じる自分。間に割ってはいるもう一人の男。
彼はナイフを叩き落とし、私を助けた後微かな街灯の下で柔らかく微笑む。
そして。


「…まあ、そんなわけないよね。」

私は微かな街灯の下でほくそ笑んだ。
足元には、尾行してきた男が転がっている。

男は私に追い付き、背後から抱きついてきた。
それが運のつきだ。

屈んで頭突き、怯んでからの急所への攻撃。
私は冷静に教科書通りの護身術を用いると、ハイヒールを片方脱いで見悶える男をメチャクチャに殴った。

靴っていうのは意外と重いのだ。
ヒールが高いものなんか特に、安定のための重りが入っていたりするから、釘を打てるものもある。

私が履いていたのは、正にそのタイプ。

おまけにトドメは重いスーツケースだ。

男が動かなくなってから、私は煙草に火を着けた。缶コーヒーは既に空っぽだ。

紫煙を燻らせながら、不意にある衝動に駆られ、私はスチールの空き缶の飲み口に男の指
を突っ込んだ。

本来関節が曲がる方向とは別の方向に力を込める。スチールはかたくて丈夫だからいいな、なんてぼんやり思った。

呻き声がした。

有り得ない方向に曲がる指は、後少しのところで折れてしまうだろう。
大して力は込めていない。

小学校の理科の教科書。呪文のように唱えながら覚えた言葉が甦る。

「支点、力点、作用点。」

適当なメロディをつけて口ずさんだら、煙草が落っこちた。後ろからぐるりと手がのびてきて、私の手首をつかんだせいだ。

音もなく気配もなく。

私は思わず硬直して、空き缶をとりおとした。