「ねえ、知ってる?」

 私は凪に物凄く基本的な事から、教えなければならなかった。

「凪は、男でしょ? で、私が女」

「知ってるよ」

「男女が一緒に住むのは色々と問題があるんだよ」

「何で?」

 何で? と聞かれると困る。

「同棲って思われるし、やっぱり世間体やら何やら……」

「同棲と同居はどう違うの?」

「え?」

 同棲と同居……。そういえば何が違うんだろう? そう思って急いで辞書を開いた。


「同棲 1つの家に一緒に暮らす事。特に結婚していない男女が一緒に暮らす事」
「同居 1つの家に2人以上が暮らす事」
 成る程。と思い辞書を凪に渡した。



「同棲って男女で暮らす事だけなんだ。ふーん。でも、僕達は同居だよね。だって柚月さんと僕と茶トラと灰色狼の4人で暮らすんだから」

「犬は人数に入るの? 入れちゃっていいの?」

「え? 犬は人数にいれちゃダメって書いてないよ!」

 何か違う気がする。でも、凪は本当に事務的に、便利の為に、そして何よりも犬の為に私と一緒に住もうと言っているのが伝わってきた。1人で同棲だなんだと意識して悩んでいた自分がバカらしくなる。

「もういいや。何でも。確かに一緒に住んだ方が犬の為! にはいいかもね」

 犬の為を強調して言ってやったのに、凪は全然気づかない。

「だよね。よかった。これで、今まで通りに散歩にも行けるし、灰色狼も寂しがらないし」

 私の複雑な心境には全く気づいていない。

 ここまで鈍いと腹が立つよりも笑い出したくなる。

 私だって何も結婚するまでは清い乙女で……という古い信仰を持っているわけではない。

 それでも一緒に住むなら最低限は好き同士でいたいと思う。

 それなのに、この男は結局「犬、犬、犬」なのだ。いつだって私の事は犬の次。

 犬に負けてる女。自意識過剰な女。バカバカしい――と思いたいのに悔しい。

 凪が私の事を考えてくれていないのが悲しい。

 


「帰ってくれる?」

 私の冷ややかな声に気づいた凪が顔を上げるが、押し出すようにして部屋から追い出した。

 鍵をかけてから「バカ」と小さく呟くと、心配そうな顔をした茶トラがこちらを見ていた。

「何でもないよ。茶トラは全然悪くないからね。悪いのは犬バカ凪だけだから」

 同棲にしろ同居にしろ、男よりも女の方が覚悟を必要とする。

 不安や心配や怖さ。それに打ち勝つ勇気と決断力。

 何よりも大事なのは、大切な人と過ごしているという安心と充足、それを満たしてくれる人じゃないとダメだ、という事。

 それぐらい鈍い私だって理解しているのに。

 それを、全く理解しないで平然と同居を提案する凪の神経を疑っているのだ。

「世間知らずの犬バカ野郎なんて大嫌い」

 茶トラをギュッと抱きしめると嬉しそうに顔を舐めてきた。

 茶トラも灰色狼も大事で大切で大好きだと臆面もなく言えるけど、凪は違う。

 私にとって凪は不可解で、自分の根底を覆す大きな力を持つ人で、そして憧れの存在だ。

 男性として憧れるなんてロマンチックなものではなく、ただ、ああいう風に素直に笑える人間になれたらいいな、と思える存在。

 自分と正反対の人間——それが凪で、私は悔しい事に、どうあっても凪を嫌いになれないのだ。


 


 なし崩し的に決まった「同居」の為に、私と凪はめまぐるしい日常を送る羽目になった。

 引越し代の為に、日雇いバイトをし(2人とも夜の仕事は諦めた)、交代で2匹を散歩させる。その傍らに不動産屋巡りをした。そして私的に何よりも問題が「親に引越しする事を何て説明しよう」だった。

 まさか「犬を飼ってたら追い出された」とは言えない。言ったら最後、実家に連れ戻されてしまう……。

 そうして、悩みに悩んだ末、出した結論が、嘘をつき通すという情けないものだった。



「お母さん? 私。うん元気。え? お盆? ちょっとバイトがあって帰れない。うん、うん。わかってる。でね、ちょっと相談があるんだけど」

 電話している私の横には何故か正座してこちらを見つめている凪と、お座りして固唾を呑んでいる茶トラと灰色狼。そんなに緊張して見つめられると、こちらまで緊張してくる。

「あのね、実は引越ししようと思うの。え? ううん、そうじゃなくて、何ていうか……。ちょっとこのマンショントラブルが多いというか……」

 トラブルを自分が起したとは言えない。

「え? えっと、そう! 下着泥棒が!」

 息をのむ母に嘘の言葉をまくし立てる。

「え? 警察? だって恥ずかしいし、え? うん、うん。大丈夫。それで、友達と一緒に暮らそうかな、と思って。え! 違う! 男じゃない! 絶対に違う! 女友達と女の子同士で住んだら怖くないって話になって。お金は今バイトして引越し代貯めてるから、貯まったら場所を探して、連絡する。うん、大丈夫。1人の方が怖いし。うん、ごめんね、色々。また電話する。うん、もうバイトなんだ。ごめんね、じゃあ」

 ブチッと電話を切ってため息が漏れる。物凄く大きな嘘をついてしまった。

 罪悪感に押し潰されそうになている私に、凪は「下着泥棒が出るの? 何で相談してくれないのさ!」と間違った方面に憤っていた。

 私は本当に凪と同居しても大丈夫なのだろうか? と再度心配になってくる。

「嘘だよ。それに万が一本当だったとしても凪には相談しないよ」

「え? 何で?」

「何でって……」

 どの面下げて、彼氏でもない男に下着の相談をしなければいけないのだ。

 ここまで鈍くデリカシーのない男だと、さすがの私でもイライラしてくる。

「凪には関係ないから」
 
 凪と出会って少しずつ自分は変わってきたと思う。それなのに私はまだ、こういう突き放した言い方をしてしまう。

 本当に可愛くない女。だから自分なんて嫌いなんだ。

 凪の何かを問いたそうな瞳を真っ直ぐに見ることが出来ないまま、私は足早に凪の部屋を後にした。






 気持ちだけ焦る7月が終わり、8月がやって来た。

 大家さんに大口を叩いた割に、私と凪は引越し先がまだ決まっていなかった。

「ペット可」のマンションは以外に少なく、4人で暮らせて、少しぐらい遠くても学校に通える範囲でバイト先にも行ける場所……なんて、中々見つからなかった。何件か物件を見に行ったけど、そのマンションに4人で住んでいる姿がどうしても想像出来なくて保留にしていた。それは、どうやら凪も同じ様で「いい家がないね」と寂しそうに呟いていた。

 4人で暮らしているのが想像できる、私たちらしい家。

 そんな理想よりも、何でもいいから早く決めなければ! と焦る気持ちはあるのに動けない。ペット可の鉄筋コンクリートのマンションはきっと、私たちの家じゃない気がしたから。

 それでもいつまでも悩んでいられない。退去の日はもうすぐそこまで迫っている。

 今日中に決まらなければ、学校から一番近いマンションに決めようと覚悟を決めた日。



 凪が奇跡をくれた。