アルバイト初日。

 特にする事がない。

 だって、僕が乗り込んだ船は陸からどんどんと遠ざかって、それでもまだまだ進んでいたのだから。

 のんびり屋の僕は「ああ、随分遠いポイントに行くんだな」ぐらいに思って、ゆっくりと海を眺めながら過ごした。


 2日目。

 物凄い船酔いにあってフラフラする。

 気持ち悪くて気持ち悪くて、立ってる事も出来なくて「寝てろよ」と猟師のおじさんに言われた。

 皆、顔は怖いけど結構親切にしてくれる。

 僕はその言葉に甘えて、その日は狭い船室で寝てばかりいた。


 3日目。

 波も収まったのか、体が慣れたのか随分と楽になった。

 おじさんが持って来てくれた「おかゆ」を見ると、柚月さんが風邪を引いた時に作ってしまった離乳食のおかゆを思い出して少し涙ぐんだ。

「どうしたんだい?」とおかゆのおじさんが聞くので「好きな人に作ったおかゆを思い出して……」と涙ぐみながら一生懸命に説明した。

「ほぉ。彼女と同棲していると。それなのに何故、こんな遠洋漁業の船になんか乗ってるんだい? 彼女心配してるんじゃないのか?」とおじさんが言った。

「…………遠洋漁業?」

「そ。っていっても1ヶ月程だが……。ああ、そうか! お前! 彼女を孕ませたな! それでか!? それで費用が必要なのか!」

 うんうんと頷きながら出て行ったおじさんだけど、僕は言葉を無くした。

 遠洋漁業。

 1ヵ月帰れない。

 そう思ったら1番に思い浮かんだのは柚月さんの顔。

「ゆ……ゆづきさああああん!」

 僕は甲板に出て、沈みかけている太陽に向かって絶叫した。




 船の皆はいい人ばっかりだった。

 何故か僕が出産費用の為に遠洋漁業に出稼ぎに出ている事になっていたけど、違うの否定の言葉は笑って流されたので、もうそのままにしておいた。だって、漁場に着いてからの雑務は体力勝負で、僕は頭を空っぽにして、釣れた獲物を延々と魚槽まで運んだ。その間にも、あっちこっちから「おい! 凪!」「凪!」と野太いおじさんの声に呼ばれ、見張りをしてろだの、漁具の手入れをしろだのの雑務を言い渡される。
 
 睡眠時間は数時間で、叩き起こされては延々と釣れた魚を運ぶ。食べて働いて寝る。本当にそれの繰り返しで、頭も体もクタクタになって、何も考えられなくなった。


「おい。そろそろ彼女さんに会いたいだろうが?」

 何日そんな日を過ごしたのかも分からない食事中に、タロさんと呼ばれる1番年上らしいおじさんが話しかけてきた。

 タロさん。推定年齢還暦過ぎ。

 それなのに元気だ。

 海の男って凄い……。

「そうですね……」

 ズズッと味噌汁を飲む。

 魚のアラが入った味噌汁は、海の上で飲むと特別に美味しくて、柚月さんにも飲ませてあげたいなと思う。

 そんな事を考えてる時点で、会いたいのは確実。

「まあ、帰ったら出産費用ぐらいのアルバイト料は貰えるんじゃないか?」

「……そうですか」

 出産費用っていくらぐらいなんだろう?

 ああ、何だか本当に柚月さんが妊娠して僕の帰りを待ってる気がする……。

「柚月さん……」

「柚月ちゃんねえ。可愛い子か?」

「当たり前ですよ! 可愛い上に天使の優しさを持ってるんです!」

「そうか、そうか。スタイルは?」

「ちょっと細身なんですけど、それなりに……って! タロさん! 人の嫁さんの何を聞き出そうとしてるんですか!」

「はいはい。お幸せに。それにしても柚月ちゃんね……。よく遠洋漁業なんかに凪を行かせたものだな。心配じゃないのか?」

「行かせたんじゃなくて、僕が勝手に!」

「自主的に短期で稼ぎに来た……と。それなら余計心配してるんじゃないのか? 言ってるのか? 船に乗ってるって……」

「いえ……」

 頭を思いっきりグーで殴られる。

 タロさん。凄い力だ。

「バカかお前は! 今頃失踪届けでも出されてるんじゃないか?」

「そんな……まさか。ちゃんと手紙を置いてきたし」

「いつ帰るって言ってるのか?」

「それは、その……」

 そもそも、漁に出る予定なんて微塵もなかった。いつ帰るなんて、そんな事言わなくても数日だけの予定だったんだ。それなのに、サイフは落とすし、乗り込んだ船は遠洋漁業だし、連絡はつけれないし最悪だ。

「はあ……。まあ、安心しろ。多分漁は今日、明日ぐらいで終わりだ。そうなったら後は帰港するだけ。陸に上がったら1番に連絡を取れよ」

「……はい」

 ああ、柚月さんに会いたい。声が聞きたい。笑って欲しい。

 タロさんが余計な事を言うから、また柚月さんを思い出してしまった。


 毎日会えなくても、やっぱり僕は柚月さんが大好きで、大事で。



 その日の深夜。

 何となく眠れなくなって甲板に出る。

 空を見上げると満天の星。

 そういえば、旅行に行った時に柚月さんに星座を教えた事があったな。あの時は夏の星座だったのに、船の上で見える星座はもう冬仕様だ。

「オリオン座、おうし座、ぎょしゃ座。ふたご座にこいぬ座、おおいぬ座」

 茶トラと灰色狼も元気にしてるだろうか?

 柚月さん、毎日1人で散歩に連れて行ってくれてるのかな。お腹が大きいのに……。

「……あれ?」

 お腹が大きい?

 誰が?

「あれ? あれ?」

 何だかすっかり、ここの生活で「お腹が大きい嫁さん」になってたけど、確か僕と柚月さんは、とんでもなく清い間柄で……。

「ああっ! しまったあああ!」

 僕がいない間に、柚月さんが他の男と付き合いだしたりしたらどうするんだ?

 何で僕はこんなにも「稼いでくるぜ」みたいな気になってたんだ!?

「ああっ! 柚月さあああん!!」

 帰りたい! 今すぐに飛んで帰りたい。

 嫌だ。

 柚月さんが他の男と並んだりするのは嫌なんだ。

 今まで、グズグズと勇気もなく過ごして拗ねて、結局、遠洋漁業に出てるけど、こんな関係はもう嫌だ。この船の上みたいに「柚月さんは僕のだ!」ってはっきり言いたい。


「柚月さん! 愛してます!!」

 僕の渾身の叫びを聞いた船員達が数人出てきて「五月蝿い!」「死ね!」「バカ!」と船室に僕を引き込んだ。


 皆に冷やかされたり、叩かれたりしたけど、僕の気持ちは変わらない。

 僕は柚月さんが大好きだ。

 だから、帰ったら今度こそ真剣に「好きだ」と伝えよう。


 関係が変わってしまうかも知れない。

 柚月さんが出て行ってしまうかも知れない。

 それでも、伝えずにはいられない気持ち。

 僕の中にそんな熱い物があるなんて自分でも知らなかった。

 全ては柚月さんに出会えたから。

 柚月さんはやっぱり、僕の女神だ。