私達の間の時間が止まったまま、時計の針だけが進んで行く。

 凪の顔は真剣だし「結婚して」の言葉はどうやら本気らしい。

 冗談にして流してしまう事は簡単だったけど、私にはどうしてもそれが出来なかった。

 左手にはめられた指輪が嬉しくて、幸せで、そんな気持ちを与えてくれた人を無下にしたくない。

 それでも、常識的に考えて、私達はまだ大学生で、しかも一年生で、生活の大部分をまだ親に頼っている。

 こんな状態で結婚なんて無理だ。



 色々な考えが渦巻いては消える。

 この考え過ぎて動けなくなってしまう自分が嫌いだった。

 無表情、無感動だと思っていた自分が嫌いだった。

 今は違う。私は無愛想かも知れないけど、感情や表情がないわけではない。

 凪と過ごしていくうちに、考える前に泣いて怒って笑ってしまう自分に気がついた。

 凪が居たから変われた。

 凪が私を救ってくれた。

 良くも悪くも真っ直ぐなこの人が、私の頑なだった部分を溶かしてくれた。

 
 だから嫌じゃない。

 
 頼りない部分があって、直に別の人に甘えるから、ヤキモキさせられた。

 遠洋漁業に行くなんて、ありえない行動をして私を泣かせた。

 一般常識を知らなくて私は何度も恥ずかしくて死にそうになった。


 凪が大切だ。

 ずっとずっと一緒に居たい。

 凪と犬達と私と寄り添って小さな幸せを大きく育てていきたい。

 嫌じゃないから答えられない。

 嬉しいから答えられない。





「やっぱり嫌?」

 長く続いた沈黙の後に、凪が寂しそうに呟いた。

 嫌じゃない。だけど、まだまだ非現実過ぎる。
 
「僕の事……嫌い?」

「嫌いじゃない! 嫌いなわけない! だけど!」

 真剣な目をした凪に、私も真剣に答えなければいけない。

「やっぱり、結婚ってのは急すぎるって言うか、意見が唐突過ぎるよ。だって、私達は学生で、それにまだ……」

 恋人同士のような時間を過ごしていないんだよ、と言いかけて止めた。

 私は凪とこのままの関係を望んでいたはずなのに、心の奥底では関係を変えたいと思っていた事に気づいたからだ。

 恥ずかしい、恥ずかしすぎる。

「まだ、何?」

「えーっと。えーっと……。あっ! まだクリスマスケーキ食べてない!」

 誤魔化しにもなってないけれど、私は席を立って潰れてしまったクリスマスケーキをテーブルに乗せた。




「コーヒーでいい?」

 食べ終わったご馳走を片付けて、残った物にはラップをかけて冷蔵庫にしまった。

「うん。ありがとう」

 そう言いながら、凪は潰れてしまったショートケーキを、お皿に乗せてくれる。

「ごめんね。潰れちゃって」

「ううん。僕が驚かしたせいだし。折角買ってきてくれたのにごめんね」

 今日までまともに話し合う機会がなかった。

 クリスマスの幸せな余韻で私はとても優しい気持ちになっている。

 だから今日、色々と話し合おう。

 そして2人でどうしていけばいいか、一緒に悩んで考えよう。

 コーヒーメーカーがたてるコポコポと言う音を聞きながら、私はそう決意した。




 潰れてしまったケーキでも、コンビニの大量生産品でも、2人で食べると凄く美味しい。

「潰れてても美味しいね。これ、今年の新商品らしいよ。今日限定だし」

「限定品が買えるなんてラッキーだね。柚月さんのおかげだね」

「今日バイト行ったから買えたんだ、って思うと複雑だけどね。美味しいからいいや、もう」

 たわいもない会話が続く。

 もう少し真面目な話をしようと思っているのに、中々会話の糸口が掴めないヘタレな私。

 そして、ニコニコとケーキを食べる凪に「結婚」を口にした先程の雰囲気は残っていなかった。

 どうすればいい? 何から話そう?

 そうグズグズ悩んでいると、凪が「あっ!」と何かを思い出したみたいに叫んだ。


「何? 急に?」

「いや、雅さんにメールするの忘れてた」

「雅? メール?」

「今日のパーティーの事……って言っちゃダメだった!」

 言っちゃダメ? 雅とコソコソ連絡を取っていた事? それとももっと大事な事?

 今日の凪の手際の良さ、ソツなくこなす諸々。

 雅の名前が出たところで、察知してしまった。

「雅に……何を言われた訳?」

 怒声を含んだ声で問うと、凪が急に慌て出した。

 露骨に怪しい。

「何をしろって雅に言われたの?」

 さっきよりも更に低い声で問うと、凪は泣きそうになりながら白状した。




 このサプライズパーティーは雅の発案で、凪も知らなかった私のバイトシフトは、雅が私のバイト先に行って店長に確認してきた事。

 プレゼントは、できればアクセサリー、しかも指輪がいいよと言われた事。

 私の指のサイズから好みまでを聞いた事。

「成る程……」

 全ての犯人は雅だったのか! どうりですんなりと色々進むと思った。

 もしかして「結婚して」発言も雅の差し金? 

 嬉しくて楽しかった気分が一転する。

 真剣に考えたのに! 悩んだのに! 大切だと思ったのに! 凪と雅の大バカ!


 先程までは温かく幸せな色に染められていた室内が、急激に色あせていくのがわかる。

 流石のニブイ凪ですら空気が変わった事に気付き「柚月さん……怒ってる?」と聞いてきた。

「別に。真剣に悩んで損した気持ちなだけ……」

「真剣? 悩み?」

「さっきの結婚発言よ!」

 よくも乙女の初プロポーズを台無しにしてくれた。夢を返せ!

「結婚発言は違うよ! あれは雅さんに愛を告白しろって言われたから、僕の真剣な気持ちを言っただけだよ!」

「え?」

「僕、本当に、これからもずっとずっと柚月さんと過ごしたいから。だから結婚して欲しいって思った」

「本気なの?」

「もちろん!」

「真剣に?」

「当たり前だよ!」

「でも、私達、まだ学生だよ? そんなの無理でしょ?」

「勿論、今すぐにでも結婚したいけど、まだ柚月さんと茶トラ達を養って行けないから、卒業して就職してからって意味だよ」

 そう言う意味だったのか?

 凪の事だから「今から婚姻届を出しに行こう!」とでも言うかと思っていた。

 もしかして凪も、私のように少しずつ変わっているのかな?

 思い立って考えもなく行動しないで、一瞬立ち止って考えられる大人になってきているのかな?


 今すぐ、という事ではないのなら、私が結婚断る理由はない――でも面白くない。

 雅と凪が仕組んだこの状況が、楽しくない。



「嫌? 僕と過ごすの?」

「嫌じゃない」

「柚月さんはこの生活がずっと続けばって考えた事ない?」

「考えてるよ。いつも」

「じゃあ、卒業してもずっとここに居てくれる? 僕と茶トラと灰色狼と」


 卒業しても、ずっとここに居る?

 凪と茶トラと灰色狼と私。4人で今までのように、過ごせる?

 ずっとずっと笑いあったり時には喧嘩したりしながら、凪とここで暮らす?

 そうしたい――私はずっとそう出来ればいいと考えていたから。

 そうしたかったから、今までの関係を壊すのを恐れていたのだから。

 それで悩んで凪を怒らせて雅に呆れられたのだから。


 そばに居たい。

 ずっとそばに居てね。凪。

 私は「ここに居たい」と素直に頷く事が出来た。