「柚月ちゃん……」

 自嘲で薄く笑う私に、田中さんが声を掛けて来た。

 その声でやっと存在を思い出す。

「何ですか?」と顔を上げると「俺、今日さ、ここに泊まっても……」と不穏は発言をしようとした。

 これは本気でヤバイ! と思った瞬間にピカッ! ドオオオオンッと音が響いて、電気が一斉に消えた。

「な…………何? 停電?」

「近くに落ちたみたいだね。なるべく動かないで。危ないよ」

 停電なんて人生初体験で、パニックになりながらも私は茶トラ達のそばへ向かおうとした。

 田中さんは完全に落ち着いていて「暗いから気をつけて。ああ、この家だけじゃなく一帯の電気が消えてる。しばらく時間がかかるかも知れない」と窓の外を見ながら冷静に言った。

 頭のいい人は冷静に物事を判断出来るのだな、という妙な頼もしさと、見知らぬ男性が家に居るという不安で、さらに委縮する私に「懐中電灯の用意は?」と聞いてきた。

「懐中電灯? たしか凪の部屋にあった気がします」

「凪?」

 言ってからしまった! と思う。私は1人暮らしをしている事になっているのに。

「この家……他に誰か住んでるの? 凪ちゃん? それとも凪君?」

 ダメだ。この人は薄々何かに感づいている。

 雅に知られてしまう。もしかしたら学校関係者にも。そうすれば親へも連絡が行くかも知れない。

 電気が消えてて良かったと思った。多分、今の私は顔面蒼白になってるだろう。

 黙りこむ私に「どうやら君の方みたいだね。残念……」と田中さんがスッと離れて行く気配を感じた。

「田中さん?」

「帰るよ。彼氏帰ってきて揉めたりしたら面倒くさいし」

 ガタガタと手探りで玄関の方へ向かってる音が聞こえ、私は申し訳ないながらも少しだけ安心していた。安心しながらも怖かった。こんな真っ暗な中、置いていかないで欲しいという思いと、凪に鉢合わせして欲しくないという都合のいい願望。そんな思いで揺れ動いてる間に玄関の扉が開いた音がした。

 帰ったみたいだ。帰り道も真っ暗なのに、私は懐中電灯も貸さず、愛想も悪く、申し訳ない事ばかりをしてしまった。

 そう反省しようとしてる私の耳に「柚月さん! 大丈夫?」という凪の大声が聞こえた。

 もしかして、さっきの玄関の音は凪だったのだろうか?

 そうしたら、田中さんはどこに?

 と疑問を感じる暇はなかった。

 懐中電灯の丸く切り取られた明かりと凪の絶叫が重なったからだ。

「な…………誰? 泥棒!」

 





 電気の回復したリビングで、私は凪と向かい合ったまま無言で時を過ごしていた。
 
 いつもは気にもならない掛け時計の音がやけにハッキリと聞こえる。

 そのチクタクという小さな音すら耳に痛い。


 田中さんは「送ってきただけだよ!」と叫んで逃げ帰った。もちろん本当にそれだけなのだけど、凪の機嫌はバイト中の100倍は悪くなっていた。眉間に皺を寄せて黙る凪を見るのは初めてで、私は会話のきっかけさえ掴めずにいた。

「さっきのヤツ何?」

 いつもよりも数倍低く響く凪の声は、声を荒げられるよりも数倍、私の罪悪感を刺激する。

「何? と言われると……」

 ほとんど赤の他人です。と言うともっと怒るだろうか? それともあきれ返られるだろうか?

「柚月さん、アイツの事好きなの? 凄い楽しそうだったよね」

「いや、凄い楽しいとかそんな事は……」

 むしろ家にいるよりもハッキリと凪の存在を意識して考えてしまって、楽しくなんてなかった。

「約束、柚月さんが破ったね……」

 低く呟く凪の声が、私の心にズシリとのし掛かった。

 約束。

 2人で交わした7つの約束。

「この家に彼氏は連れてこないんだったよね?」

「彼氏なんかじゃないよ!」

 そう叫んだけど、凪はガタッと席を立って「もう、寝る」と部屋を出て行った。

 確かに私が悪い。だけど、あんなにも怒るなんて思わなかった。

「凪のバカ! 話聞いてよ!」

 八つ当たり気味に叫んだけど、凪はその日、部屋から1歩も出て来なかった。






 翌日。

 少しは頭の冷えた私は、凪に謝ろうと、いつもより少しだけ豪華な朝食を作り、いつも無断で開ける凪の部屋の襖を初めてノックした。

 返事がないのは想定していたが、物音すら聞こえない。まだ寝てるのか? とも考えたが凪は今日、1限から必修の科目があったはずだ。

「凪?」

 悪いとは思いつつ、少し襖を開ける。

「凪?」

 狭くて、風邪をひいた後に少し片付けられたらしいその部屋の中に凪は見当たらない。隠れる場所もないので不在は一目瞭然だった。


 この家で過ごしてから凪が私より早起きをして学校へ行くなんて事はなかった。

 あの騒がしい凪が、私に気づかせもせず、音も立てずに早く出ていってしまった事を知る。

 話さえ聞いてくれれば、あれは不可抗力以外の何物でもないと理解してもらえると信じていたのに、凪は私と話すらしたくないぐらいに怒っているみたいだ。

 茫然と立ち尽くす私は、狭いその部屋の中央に置かれた折り畳み式のテーブルにあった『それ』に気がついた。

 急いで手に取る。

「…………凪?」

 私の手からそれはヒラリと落ちた。






「柚月!」

 フラフラと歩く私の背中を雅がドンッと押した。

「昨日……どうだった?」

「昨日?」

「もう! とぼけちゃって! 田中さんよ、田中さん。大丈夫だった?」

「昨日? 田中さん?」

「…………柚月?」

 会話すら成り立たず顔面蒼白であろう私の様子はさぞかし悲壮感が漂っていたのだろう。

 雅に手を引かれ、人気のないベンチまで連れて行かれた。

「何か……あったの?」


 何か?

 凪が。

 怒った。

 居ない。


 雅にどこから説明をすればいいのだろう。説明したいのに言葉が出ない。

「み……やび」

「ちょっ……柚月!」

 我慢していた涙腺が崩壊した。

「凪が……」

 ――凪が居ない。凪が居ない。凪が居ない。

 私が凪との関係を壊した。





 だから怖かったのだ。凪との関係を築いていくのが。

 だって、居ないだけで、こんなにもこんなにも苦しい。

 胸が痛い。頭も痛い。言葉も出ない。

 出てくるのは後悔と涙だけだ。

「凪が……」

 その単語を繰り返す私を雅が優しく抱き留めてくれる。

 凪よりも小さくいい匂いがして、柔らかく細いその腕の中で、私は人目もはばからず、号泣した。

 ――泣いて、泣いて、泣いて、私なんか溶けて消えてしまえばいいのに。

 そう思ってまた泣いた。




 30分ほど涙が枯れ果てるまで泣くと、頭に霞がかかったように何も考えられなくなった。

 泣き疲れて精根尽きた私に「落ち着いた?」と優しく聞いてくれる雅に、頷いて返す。

「聞いていい?」

「うん」

「凪って誰?」

「凪は……凪だよ」

「質問を変える。凪って子は柚月が前に気にしていた子?」

 意味がわからず黙り込む私に「柚月をいい方向に変えてくれた人だよ! 前に私聞いたよね」

 そういえば、私が変わったと前に雅は言っていた。その後、彼氏なのか? 攻撃に疲れて逃げ回っていたけれど、紹介しろとか言っていた。

「多分、そう」

「多分? 柚月が人目も気にしないで泣き叫ぶほど変えれる人間がそんなにも居るの?」

「いない」

 私の心を激しくかき乱した人は凪しかいない。

「凪はわかった。じゃあ、その凪が何をしたの? どうしたの?」

「凪は居ない」

「え?」

「居なくなっちゃったの!」


 もう自分の処理能力だけでは限界だった。

 私は雅に、凪と茶トラ達との出会い、マンションを追い出されて同居している事、旅行に行った事、すぐに他の女に甘えてご飯を作って貰う事、屈託なく笑う凪の笑顔に私もつられて笑ってしまう事、風邪をひけば心配で何も手につかなくなった事、そして出ていってしまった事を、思いつく限り話した。

 物事の順番もめちゃくちゃで、脈略ない話を雅は黙って、ずっとずっと聞いてくれた。


「最悪……なの私」

 枯れ果てた涙はもう出ない。頭が痛い。声もかすれる。

「もう最悪なの……」

 雅は小さくため息をつきながら「いや、確かに悪いけど、最悪ってほどの事態じゃないと思うよ。田中さんと何かあった訳じゃないんでしょ? しかも結構強引に送るって言ってたし。それをけし掛けた周りの人間も悪いし、柚月だけのせいじゃない」

「でも、もっと強く断って私が1人で帰ってたら」

「どうしても結局は押し切られたと思うよ。柚月って田中さんの好みだもん」

「でも、家に入れちゃったから」

「それは確かに。でも柚月は自分の為に濡れた人間を放り出すことは出来ないでしょ。涼しい顔して優しいし」

「優しくなんてない」

「あのね! 優しくない人間は捨て犬の為に、そこまでしないの。結局、柚月も凪君も似た者同士のお人よしなんだよ!」

 それでもウジウジと悩む私のバッグを雅は引ったくり、凪の手紙を取り出したし声に出して読んだ。



「頭を冷やします。しばらく帰りません。茶トラと灰色狼をお願いします……ねぇ。決定的な別れの言葉じゃないよこんなの。犬達もいるんでしょ?」

「そうだけど、でも凪が……」

「あ~もう! でも、でもばっかりもう禁止! じれったいよ! 好きなんでしょ? 凪君が! それで悲しいんでしょ? だったら探しなよ! 同じ大学なんでしょ? バイト先も知ってるんでしょ? 泣いてないで探しな!」

「好き? 探す?」

「まさか! 違うとか言わないよね。もう、認めちゃいなよ。そうしないと、もっともっと、これからすれ違うかも知れないよ」




 凪が居ないのは嫌。もう嫌だ。

「好き」

 このたった2文字の単語を認めない訳にはいかなかった。