「柚月ちゃんって言うの? 可愛い名前だね」

 眼鏡さんが積極的に話しかけてきてくれるのに、私は「はい」「ありがとう」の言葉を並べながらうわの空で会話をしている。

 失礼な事だと承知しているのに、意識は水の中を漂っていて、ゆらゆらと揺れている。

 目の前で起こっている全ての事に現実を感じられない。

 明るくて輝いているのに、私はその中には居ない。


 
 ――皆、凄く楽しそうだな。

 ――私もこんな風に騒いで笑えたらいいのに。



「柚月ちゃん。さっきの犬の話をしてよ」

 眼鏡さんは、こんな無愛想な私を少しでも楽しませるべく、会話を引き出そうとしてくれている。

 さすがに申し訳なく感じ「あの……犬は……」と答えようとした所で、私の目の前に大きなサラダボールが乱暴に置かれた。

「お待たせしました! シーザーサラダです!」

 ビクッとなる私と、一切こちらを見ようとしない凪。

 本当にどうしてこうなったのだろう?



 こんな状況で楽しめる根性のない私は、早くも帰りたくなって来た。

「柚月ちゃんは、犬に何をしたの?」

「何をした?」

 私は凪に何をしたのだろう? 

 勝手に怒ったり泣いたりすねたりしているだけで、凪は出会った当初から全くぶれないでいるのに。

 私が変わってしまったんだ――強欲に、我儘に、ますます可愛げのない女に。

「ごめんね、楽しくない? 困った顔してるね、ずっと……」

「いえ、そんな事は……」

 初めて会った人にまで、気をつかわせてしまい、これでは私がここに来た意味がない。

 折角、雅が開催してくれたコンパなのに、私は仏頂面で、凪の事ばかりを考えている。

 楽しまなきゃ、笑わなきゃ、と思うのに、顔が凍りついたように動かない。

 それでもなんとか無理に微笑み「楽しいですよ」と眼鏡さんに向かい合った所で、私と眼鏡さんの間にスッと手が入って来た。

「鶏のカラアゲ、柚子胡椒風味です!!」

 ドンッと、あまりにも強く料理を置いたので、私の飲んでいたウーロン茶のコップがユラリと揺れた。

 怖い顔で去って行く凪の背中を見て、あんなにも機嫌が悪そうな凪は初めて見たと思った。

 いつもいつも、笑顔で接してくれる凪に、あんな顔をさせて、隣の眼鏡さんにも気を遣わせて、私がしている事は逃げでも新しい選択でもなく、人を不快にさせているだけだ。

「感じの悪い店員だな。大丈夫?」

「はい」

 感じの悪い店員の、感じを悪くしている原因が、多分目の前の女である事など全く気づかない眼鏡さんが優しくおしぼりを差し出してくれていたけど――私はそれを受け取る事が出来なかった。


 
 その後は何となく眼鏡さんと気詰まりになり、私はボンヤリと辺りを見回す。いつの間にか全員が和み、アドレスの交換などをしている。

 交友関係を増やすって決めたのに、私はその輪に入るのを躊躇った。

 正直に言えば、もう早く終わって欲しいとそればかりを願っていた。

 その悲痛な顔を隣の眼鏡さんが心配そうに見ている。

 もしかすると、雅と知り合いなのがこの眼鏡さんで、私が失恋したと思って気を使ってくれているのかもしれない、と今更ながら雅がこのコンパを開いてくれた原因を思い出した。

 だから、こんなにも親切にしてくれているのだ。

 私は本当にバカだ。

 お世話役の雅や眼鏡さんに、これ以上迷惑をかける訳にはいかないと、座を中断しようとしたところで、私達が案内された個室のドアが開いた。

 現れたのは凪ではなく店長さんで、私の事を一瞥したまま表情を変えずに「台風がだいぶ接近してるみたいで、電車が止まりそうですが、お客様、大丈夫ですか?」と聞いた。

「台風!」と周囲がざわめき出すのを余所に、私は「ああ、茶トラ達の言った通りだったな」と思った。

 散歩中に何度も注意してくれたのに、私はその注意も聞かずに、勝手に飛び出してきてしまった。

 私はここに居るし、凪も居るし、茶トラ達は大丈夫だろうか? そう思ってしまうともうダメだった。

 ここに居る事は出来ない。

 

「ごめんなさい。私、電車関係ないけど、帰ります。犬が心配だし……」
 
 ざわめいていた室内に向かって、私は今日始めての大声で全員に話しかけた。

「え? 柚月、あの犬まだ飼ってたの?」

「……うん」

 夏休み突入後の出来事だったので、そういえば雅に引越しした事も告げてなかった。

 言える訳がないけれど。

「あれ? 夏休み中に飼い主見つけないと、マンション追い出されるって言ってなかった?」

「……うん、まあ」

「引越ししたの? 捨て犬の為に? マジで?」

「……うん」

「で、どこに引越ししたの?」

「……このあたり」

 ますます突っ込んで来そうな雅の攻撃をかわす手段を考えていると「お客様、帰られるなら急いだ方がいいですよ。雨がまた酷くなってますから」と店長さんが助け舟を出してくれた。

「はい。そうします」

 一瞬だけ、ニヤリと微笑んだが店長さんに深く感謝をする。

「じゃあ、皆様。また機会があれば。本日はどうもありがとうございました」

 社交辞令的な挨拶を心を込めずに言い、急いで帰り支度をしていたら眼鏡さんが近寄ってきた。



「送って行くよ。心配だし」

「いえ! 大丈夫です」

 頑なに固辞をする私の態度が悪すぎたせいか「柚月ちゃん。送るぐらいいいんじゃないの? 田中の行為を無駄にしてあげないでよ。可哀そうだし」と周囲から責めたてられた。

 この眼鏡さんは田中さんという方だったのか、と帰る間際に知る。

「でも、こんなにも風が強いですし、本当に私の家すぐそこなので」

「すぐそこでも、何があるかわからないじゃん。自然災害だし」

「でも、大丈夫です」

「だから! 田中が送りたいって言ってるんだから送らせてあげなよ。すぐそこなら、田中も送って帰って来るよな?」

 田中さんのご友人の言葉に、田中さんは「もちろん」と頷いた。

「こんな暴風の中、呼び出しちゃった責任もあるし。せめてもの償いだと思ってくれたら嬉しいんだけど」

「はい。ではお願いします。本当にすみません」

 そこまで言われると、これ以上断りの言葉が見つからず、私は送ってもらう事になってしまった。

 大元をたどれば、私が雅に電話をしたのが原因なのだから、田中さんは一切悪くないのだけれど、その話をすると、また延々と会話が続きそうで嫌だった。

 それに一刻も早く帰りたかった。

 茶トラ達だけを残していて、台風接近。あの古い家では何があるかわからない。


「気をつけて」

 雅が私の耳元で囁いた。

「わかってる」

 そう答えた私は、本当にわかっていなかった。

 何も聞こえていなかった。

 何も考えていなかったのだ。