熱い、熱い。体が熱い……。

 苦しい、苦しい……。息が……。

 臭い、臭い。

 何だか焦げ臭い…………。

「焦げ臭い?」

 ガバッとベッドから起き上がると、沢山汗をかいたおかげか、休む前よりも随分と体が楽になった様に感じた。

 そして家中に漂う異臭に、嫌な予感を覚えつつ、私はまだ少しふらつく足取りでキッチンへ向かった。

「凪?」

 散らかり放題で放置されたキッチンに人影はない。

 焦げた匂いの元は、私が高校時代から愛用していた片手鍋だった。その中には黒くなり過ぎて何を作っていたのか原型もわからない塊が、まだ少しの熱を保ったまま放置されていた。

「お気に入りにの鍋だったのに……」

 こんなにも焦がされた上に放置されていたら、焦げが取れない。

 買い換えを視野にいれつつ、鍋の中へ水を張った。





 少しだけ眠るつもりだったが、思ったよりも熟睡してしまったようで、辺りは夕闇が迫り部屋は薄暗さを増していた。

 凪はどこへ出かけたのだろう?

 もしかして茶トラ達の散歩かも知れないと思い庭を覗いてみるが、茶トラ達はそこにいて、暇そうに寝そべっていた。私の顔を見ると散歩に行けると思ったのか、尻尾を振って近づいて来る。

「ゴメンね。今日は散歩無理そうなの。凪が帰って来たら頼んであげるからね」

 病人を置いてどこかへ出かけた薄情な男よりも、呼びかけに返事をしてくれる茶トラ達の方が、よほど優しくて利口だと思う。

 ずっと休んでいたからバイトに出かけたのだろうか? それならそうと一言ぐらい声をかけるなりメモを残すなりしてくれてもいいのに。

「確かにバイトは大事だけど……」

 私は学校もバイトも休み、ずっと凪の看病をしていたのに、薄情な男だ。

 そばに居て欲しいと引き止めたあの凪の言葉や態度は、熱に侵されたが故の行動だったのだろうか?

 その言葉を信じ、私は凪のそばに居た。

 自分がそうしたかっただけなのかも知れないが、病人を置いて出かけるなんて真似は、私には出来なかった。

 凪はその辺を上手に調整して、器用にやっているのかも知れないと思うと、言いようのない虚しさと孤独を感じてしまい、私はその不満をぶつける相手もなく、またベッドへと戻った。





「ん?」

 額に温もりを感じ、私はまた微睡みから目覚めた。

「凪?」

「そうだよ」

「凪?」

「具合はどう柚月さん? 少しは楽になった? まだしんどい?」

「しんどい」

 寂しかった。とても心細かった

「熱は少し下がったみたいだね。何か食べれそう? 食べれるなら食べた方がいいよ」

「食べたくない」

「でも、少しでも食べないと薬が飲めないよ」

「飲みたくない」

 額と額を合わせたまま、私と凪は会話をする。

 微睡みから目覚めると、夕日のまろやかな明るさはすっかりと闇に覆われていて、近すぎる距離にいる凪の姿さえも闇が溶かしてしまっていた。

 自分の鼻先さえ見えない部屋の中で、私と凪は静かに静かに会話を交わす。



「凪はどこへ行っていたの?」

 温もりを感じるのに、凪の声も聞こえるのに、不安が消えない。

 私はただ、そばに居て欲しかっただけなのに。

 誰よりも、凪にそばに居て欲しかったのに。

「柚月さんに少しでも食べてもらえるように、バイト先に行って、お姉さんたちに風邪にいい物を作ってもらっていたんだ」

 額から温もりが離れると同時に、凪は部屋の明かりをつけ、そばに置いてあったタッパーを開けた。

 柔らかく煮込んだであろう野菜の煮物に、小さくて酸っぱそうな赤い梅。緑の野菜はほうれん草のお浸しだろうか? 上に乗せた鰹節がタッパーの蓋に張り付いている。白くてドロリとしたお粥が、レトルトパックのようにジップロックに入って出てきた。

「何なら食べれそう? やっぱりお粥がいい?」

 匂いは少ないはずなのに、私はその食べ物の混じり合った匂いに、いい知れぬ不快感を感じた。

「食べたくない」

「え?」

「何も食べたくないの。いらないの」

「ゆ……柚月さん?」

「いらない! いらない! いらない!」

「柚月さん?」

 感情が渦巻いて目まいがする。

 寂しさ、虚しさ、悲しさ、悔しさ。

 この急激に膨らんだ思いを上手に伝えるすべを私は知らない。

 態度でも言葉でも、今の感情を表すことが出来ない。

 だから私は困惑気味の凪の顔に、傍らにあったウサギのヌイグルミを投げつけた。

「出て行って! 部屋から出て行って!」

「柚月さん……ごめんね」
 
 悲しそうにタッパーをしまい、部屋を出て行った凪の後ろ姿に、胸が痛まないと言えば嘘になる。 

 それでも、どうしても、凪が私以外の女性に甘えて作ってもらった食事を食べる気にはなれなかった。

 私の為を思って作ってくれた見知らぬ女性には本当に申し訳ないと思うけど、今はどうしても喉を通る気がしなかった。

 





「柚月さん?」

 凪の声が再び聞こえて、私は数度目の微睡みから目覚めた。

 凪を見ると、その手には深めの器に容れられたお粥があった。

「さっきも本当は作ろうと思ったんだ。だけど鍋が焦げてテンパってしまって、それで慌てていつもみたいにご飯作ってって頼りに行ったんだ。でも、それが柚月さんの気を悪くしたならゴメン。今度はね、焦げなかったよ! だってネットでレシピを調べて作ったから!」

 お粥にレシピ? という意味のわからない単語を聞いた。何か特別な調味料でも必要だったのだろうか?

「僕だってやる時にはやる男なんだよ」

 グイッと目の前に差し出され、両手で包み込むように持たされたので、私は否応なくその器を受け取った。

 汗をかいて眠っていたせいか、少し体が冷えていて、温かい器がとてもありがたく、私は素直にお礼を言う事が出来た。
 
「熱いからフーフーしてね」

「子供じゃないんだから大丈夫だよ」

 そう言って一口食べたら、想像以上に熱かった。

「熱っ!」

 よく見ると、器はプラスチックではなく分厚い木で出来た丼で(過去に一度も使った事がない新品だった)並々と溢れんばかりに入っている。

「だから熱いって言ったじゃん」

「お粥なのに何でこんなに熱いの? 大盛過ぎるし、さっき食べた感じではお粥というよりも重湯って感じだたんだけど、米は入ってるんだよね?」

「もちろん米は入れたよ。磨り潰して」

「磨り潰す?」

「うん。そう書いてたから」

「ねえ凪? もしかしたらだけど、それって離乳食のお粥の作り方だったんじゃないの?」

 ハッとした表情で自分の部屋に戻った凪は、しばらくしてバツが悪そうな顔で戻ってきて「そうだった。離乳食初期って書いてた。しかも冷まして注意して与えてあげて下さいって注意書きもあった」と情けなさそうに呟いた。

「ごめん、作り直して来るよ」と言う凪を遮って、私は離乳食初期のお粥を食べた。

 味がなくドロドロのお湯という感じで、とてもお粥だとは言い難い食べ物だったけれど、先ほど見せてくれたタッパーに入った美味しそうに調理されたどの料理よりも、私はこのお粥を食べたいと思った。

 心と体が少しずつ少しずつ、ほぐれて温もっていく。



「ごちそうさま」

「柚月さん、あんなお粥食べなくても良かったのに」

「そうだけど食べたくなったから」

「どうして? 他にもおいしそうな物は沢山あったのに」

「どうしても」

「やっぱり、僕の愛情料理じゃないとダメだった?」

 凪としてはいつもの冗談のつもりだったのだろう。

 それなのに、私の頬は自分でも感じられるほどの熱を持った。

「柚月さん?」
 
「見ないで!」

 熱のせいで、いつものスルースキルや笑いとばしが出来ない。

 だから、寂しさや嬉しさや悲しさや喜びが溶け合った複雑な素の表情に、きっとなっている。

 凪には見られたくない――今はまだ知られたくない。