「柚月さん! 柚月さん!!」

 早朝から、ドアを叩く凪の大声で目が覚めた。

「……何時?」

 チラリと時計を見ると、午前5時。こんな時間に一体何の用があるのだ?

 放っておきたいが近所迷惑になりそうなほど騒音を巻き散らかしているので、私は仕方なくドアを開けた。


「ニュース! 大ニュース! いや……そんなのじゃなくて、とにかく大事件が!」

 上がってとも、どうぞとも言わないうちに凪は靴を脱いでズカズカと部屋に上がりこんでくる。

「凪……静かに! いくらなんでも早すぎるし、それに……」

 私パジャマなんですけど? と言いたいのを我慢する。

 どうせ言った所で「それが、どうしたの?」とか乙女心をわからない発言をするに決まってるのだ。

 凪にそんな心の機微を求めても無理だと早々に諦め、凪の興奮が収まるのを待った。



「店長! 家! 犬! 民家! 庭!」

「……で?」

「だから店長が民家で庭付きで犬なんだよ!」

「…………で?」

「もう! だから! 住む家が決まったんだよ!」

「え?」

 決まった? 何それ? 独断で決めたって事?

「凄いんだ! とにかく凄いんだ! もう理想! 理想の環境だよ!」

「ねえ、凪。それって1人で決めてきたって事?」

「うん! もちろん!」

 まったく悪びれない凪に腹が立つ。

 どうして! どうして独断なの!? 一緒に住むんじゃないの!?

 私の事なんて、やっぱり後回しなんだ。

 やっぱり私よりも犬の環境が優先なんだ。

 それを十分に理解していたはずなのに、実際目の前に突き付けられると、胸が苦しくなるほど痛かった。

 今までに体験したことのない、呼吸すら出来ないその苦しみが、私の中の何かを壊した。

「もう……いや……」

「え? 何? 柚月さん?」

「もう! 嫌! 何でもかんでも勝手に1人で決めて、私を巻き込んで! いっつもいっつも! 嫌! もう嫌! 凪と一緒になんて暮らせない。もう知らない!」

「ゆ……柚月さん?」

「出て行って! もう会いたくない! 凪なんて大嫌い! 帰って!」

 訳がわからないという顔をしている凪を、グイグイと押して、部屋から追い出し、急いでドアにロックを掛けた。

「凪のバカ!」

 心配して駆け寄ってきた茶トラを抱きしめて、私は自分でも意味がわからずに唯、泣いた。

 前に泣いた時は目の前に凪がいて抱きしめてくれたのに、今はその存在に泣かされている――そう思うとまた涙が溢れた。

 こんなにも苦しくて悲しい気持ちは知らないし、知りたくもなかった。

 凪と関わってからこんなにも私は弱くなった。

 それならまだ、感情を表せないと悩んでいた時の方が楽だった。あの時に戻りたい。

 凪と知り合う前に戻りたい。

 戻りたくないけど、戻りたい。






 その日は凪に会わない様に散歩に行ったり、バイトに行ったりと凪から逃げ回った。

 そしてバイト終了後の夜に静かに帰宅すると、凪が私の部屋の前で待ち伏せをしていた。

 無視して鍵を開けて中に入ろうとすると「柚月さん待って」と見たことない程真剣に言われて、思わず立ち止まってしまった。

「……何?」

「来て!」

 凪が私の腕を取って、どこかへ連れて行こうとしたので「待って! 茶トラ! 散歩に連れて行ってあげないと」と1番の懸念事項が口をついて出た。

 今日は凪にも預けなかったし、もうそろそろトイレが限界では? と心配だったのだ。

 凪は1度私を見て、それから自分の部屋に入り灰色狼を、そして「鍵貸して」と私の手から鍵を奪い、茶トラを抱いて戻って来た。

「行こう! やっぱり皆で行こう!」

 私に茶トラを抱かせて、また腕を引いて歩き出した。




「いらっしゃいま……なんだ凪? 今日は休みじゃなかったか?」

 連れて来られたのは「居酒屋 祭り」もちろん凪のバイト先だ。

「店長来てる?」

「ああ。店長! 凪が来てますよ!」

 いらっしゃいませぐらいの大きい声で、店員さんのお兄さんが店長さんを呼び出した。

「凪……ああ。あれか? 家の鍵か?」

「はい。柚月さんにも見てもらおうと思って」

「まあ好きに使ってやってくれ。彼女さんにも色々迷惑をかけたしな。それにしても、いきなり同棲とは、凪も見た目によらず……」

 周囲の誤解がさらに広がっている気がする。

 違うと訂正して回りたいが、言ってもあまり信用してもらえなそうだ。

 店長さんと凪が話している姿を、後ろから黙って見つめる私は、結局どうしたいのだろう? どうされたいのだろう?



 ――私は今朝、凪に泣かされて悲しんだ。

 ――もう関わりたくないと言った。
 
 ――それなのに心の奥底では凪が私を待っていると信じてた。

 ――私を待っている凪を私は望んでた。



 思考がオーバーヒートしそうになった所で、凪と店長さんは話を終えた。

 そしてまた私の手を引いてドンドンと歩いていく。

 いつもみたいに気軽に話しかけられる雰囲気ではなく、何となくお互い黙って歩き続けた。

 凪のバイト先から15分ぐらい歩いただろうか?

 駅前の繁華街はとっくに無くなっていて、静かな住宅地らしき場所に到着する。

「ここ」

 凪がやっと足を止めて、声を出した場所には、一軒の古い古い民家があった。

 垣根があって、よく見えないけど、2階のない平屋建ての造りになっている家みたいだった。

 キイッと軋む小さな門を開け、店長さんから借りてきた鍵を差し込むと、玄関のドアが開いた。

「入って」

 薄暗すぎる室内と、入ってしまったらこのまま流されてしまうという思いで、靴を脱ぐのを躊躇してしまう。
 
 そんな私の躊躇なんて知らないとばかりに茶トラが私の手からリードを引き離す様にして、室内へ突進してしまった。

「ほら、柚月さんも……」

 凪の手が私の方へ伸びる。

 この手を掴んでもいいのだろうか? 本当に後悔しないだろうか? もう2度と苦しくて泣かないだろうか?

 そこまで考えて、自嘲の笑みが漏れた。

 今まで散々振り回されて、マンションを追い出されるわ、バイトを増やさなければならなくなるわで、大変な目にあった。感情を制御出来なくなるほどの怒りも悲しみも感じた。

 でも、今この瞬間、差し出された凪の手を私は迷いなく握り返そうとしている。

 苦しくて悲しくて、怒って泣いても、凪と犬たちが一緒にいる時間の方が私にとっては大切みたいだ。

「何を今さら……」

 そう思うと不思議と晴れ晴れした気分になって、私は差し出されている凪の手を強く握り返した。