教室の内部が、静寂に包まれた。

 その空気を知ってか知らずか、目の前の男はまた平然と言い放った。

「東柚月(あずまゆづき)さん! 僕と付き合って下さい」

 もちろん、教室内部全ての人間が固唾を呑んでこちらを注目している。

 私は、呆然となり思った。

 こいつ……正気なの? と。



「……で、無視して帰ったわけだ」

「当たり前でしょ? 意味わかんない」

 あの男、何て名前だったっけ? えっと、そう! 確か凪(なぎ)だ。

 凪が苗字なのか名前なのかは知らない。そもそも、大学に入学して講義が始まったのが1週間前で、履修が同じになったのは3日前。話をした事もなければ、性格も知らない。せいぜい「見た事あるな」ぐらいの他人だ。

「公衆の面前で大告白! どんな子なの?」

 さっきから、雅(みやび)がうるさい。興味深々ですよ~という顔を隠そうともしない。

「どんなって……犬みたいなヤツ?」

「犬! 犬かあ。それは可愛いね。尻尾振って柚月さ~んって来たんだ」

「そ。尻尾見えた」

「面白い子じゃん。飼ってあげたら? 凄い特技とかしてくれるかもよ~」

「うちのマンション、ペットお断りなの。それに飼う気ないし」

「可哀想~。犬君」

 可哀想と言いながら、笑ってる雅の方が酷いと思うよ。

「そんなこんなで色々あって疲れた。だから今日は帰っていい?」

「え? 今からお茶しようって言ってたじゃん! さっき」

「うん。気が変わった。お茶はまた明日でいい?」

「まぁいいか。公衆の面前で告白されるなんて、それはそれはお疲れだもんね」

「本当に疲れた。だから帰って寝る」

 そのまま軽く雅に手を振って、校内を出た所で別れた。





 雅との付き合いは大学の入学式からなのでまだ浅い。同じ学部なので少し話しをする機会があり、そこで雅が私と同類の人間であると直感した。



 ――人や物事に対する執着が低い子。
 
 ――笑っても怒っても、それが本心からではなく、周囲に溶け込む演技である事。



 何でも興味を示して面白がるフリをするので、今日の講義が一緒だったらさぞかし冷やかしの眼差しを向けられた事だろう。そして一応の友人同士『女の子らしく』『コイバナ』の1つでもしなければいけなかったかも知れない。

 ああいう場合、普通の女の子ならどういう反応をするのが正解だったのだろうか? 

 頬を赤らめて凪という男子を見る?

 それとも逃げ出して、居ても立ってもいられず友達に相談でもする?

 私の完璧に相手を無視するという対応はまずかったのかも知れない。だけど私にとっては、現実感がない薄いスクリーン越しのストーリー(しかも低予算)という印象しか持てなかった。

 

 自分は本当に感情を表に出すのが下手だ――とこういう時に深く思う。

 楽しい事も、嬉しい事も、悲しい事も、驚く事も18年も生きていたら人並みにはある。今日だって普通に驚いたのだ。ただ、それを上手に表現する事が出来ない。

 小さい頃からそうだったみたいで、私の幼稚園までの写真には、無表情な顔をした自分が並んでいる。

 小学生になり女子の世界が出来上がると、私はその世界になじもうと必死で周りに合わせる努力をした。

 そうして出来上がったのが今の私だ。

 笑っても怒っても驚いても、それが本心なのか仮面なのか区別がつかなくなった自分。

 どうしてなのか……はわからない。

 トラウマもなければイジメもない平凡な日々を過ごして来た。だから特に深い理由はないのだと思う。ただ、走るのが苦手だったり勉強が苦手だったりと同類で、私は感情を表す事が苦手なだけなのだ。

 苦手分野を急激に克服する事は出来ない。

 たとえ大学生になって環境が大幅に変わっても……だ。




 4月、大学入学を機に私は1人暮らしを始めた。

 どうって事のない地方都市の小さな町で、学生用ワンルームマンションの下がコンビニになっている、家賃6万円の小さな私の城。アルバイト先もマンション下のコンビニに決まり、正に住職近接。大学までも電車で1駅。まあまあ、いい所が見つかったと素直に思った良質の物件だった。

 大学からマンションに戻り、部屋へ入ろうとして違和感を覚えた。

「ん?」

 通過した隣の部屋の前にもう1度戻る。

「ん? 凪?」

 紙に書かれてテープで貼られた表札。そこに『大澤 凪』の文字を発見する。

「まさか……ね」

 もしや隣に住んでいるとか? いや、いくらなんでもそんな偶然はないに決まってる。

 しばらく考えに耽っていると軽く肩を叩かれた。

 驚いて振り返ると、そこには人懐こそうな笑顔を浮かべた「犬」もとい「大澤凪」がいた。

「お隣さんって知ってて、声かけて来たんだ」

 声をかけるというより、いきなり「付き合って」と言った気がするが、そこはあえて触れずにおく。

「うん。柚月さん、下のコンビニでもバイトしてるでしょ? だからよく見かけてたんだ。ここ数週間ぐらい。それで、親しくなりたいなって思って」

 人懐こい笑顔を一切崩さない。本当に尻尾が見えそうな程で、こちらとしては知らないうちに懐かれてしまった気分になる。

「そうなんだ。一応お隣さんだし今後とも宜しく。それじゃあ」

 一切親しくする気はないけれど、社交辞令として返事をし、踵を返して立ち去ろうとした刹那、どこかで犬が吠えた。それも、かなり近くの距離で……だ。

「犬?」

 いくら犬っぽくても、まさか目の前の男ではあるまい。

 何となく辺りをキョロキョロ探していると、大澤凪の動きが落ち着かなくなった。

「まさか……あんた?」

「ちっ! 違う!!」

 噛んでますけど? 目が泳いでますけど?

 怪しげにジッと見つめると、大澤凪は物凄くバツが悪そうな顔をして「……内緒にしてくれる?」と言いながら自室のドアをそっと開けた。




「あんた……バカでしょ?」

 大澤凪の部屋は、当たり前だけど私と同じワンルームの造り。

 その狭い部屋の中に、3匹の子犬がいた。

「だって、ほっとけないでしょ? 人として!」

 同族だからでしょ。と口から出かかったけど、黙る。

 流石にそこまで軽口を飛ばせるほど親しくはない。

 どう対処していいのかわからずに、玄関で立ち尽くしている私の足元に1匹の子犬が擦り寄って来た。

 茶色と白が交じった可愛い子犬だ。

「茶トラ。ダメだよ。柚月さん困るよ」

「茶トラ?」

「そう、その茶色いのが茶トラ。後、この白いのが白ウサギ。で、このちょっと薄い黒なのが灰色狼」

 動物の名前に別の動物の名を付ける。どういうネーミングセンスなんだろう?

 そんな話をしている間に茶トラは私の足をよじ登ろうと、足をカリカリし「クゥーン」と鳴く。極めつけに潤んだ瞳で私を見つめる。

 あまりにも純粋で無垢な瞳を疑いもなく向けられると、構わずにはいられないような不思議な気持ちになり、私はおずおずと茶トラに手を伸ばした。

 その手にすり寄るように甘えるので、私は茶トラをそっと抱き上げて、頬ずりし、頭を優しく撫でた。




「柚月さんは、きっと犬が好きだって思ったんだ」

 私は大澤凪の部屋に上がり、茶トラを膝に乗せ、何故だか向かい合ってお茶などを飲んでいた。

 初めて会うも同然の男の部屋に上がりこむとは、自分でも信じられない行動を取る。

 大澤凪と茶トラの熱烈歓迎ぶりに根負けした結果だけれど、この男は見るからに犬系のニコニコ男だし、いきなり襲われるとか、そんな心配は無用だろう。

「なんで犬好きって思ったわけ?」

 自分でも犬が好きなんて知らなかった。

「う~ん……。カンかなぁ」

「でも、ここペット禁止だよ。どうするわけ? 3匹も拾っちゃって」

「柚月さんなら見過ごせる? 目の前で保健所に連れて行かれようとしてる子犬を見捨てる事が出来る?」

「出来るよ。だってそんなの、その場限りの自己満足でしかない。この子達と同じような目に合っている全ての犬を救う事は出来ないし、何より、飼えもしないのに貰って来る方が迷惑だし無責任だと思う」

 言い過ぎたかな? と思ったら案の定、大澤凪は目を潤ませ始めた。

「ちょっと、泣かないでよ。言い過ぎたから。ごめん」

 それでも泣き止まない大澤凪を見て、つい「私も何とか飼い主を探してみるから」と口走ってしまった。

 しまった! と思っても遅かった。

 大澤凪は泣き顔から一瞬で笑顔になり「柚月さん! ありがとう!」と抱きついてきた。

「止めてよ! わかったから!」

 私と大澤凪の間に挟まれてしまう形になった茶トラが驚いて、膝から飛び降りた。そして、いきなり大澤凪に噛み付いた。

「いたっ! わかったわかった。茶トラも柚月さんが好きか。そうだね! 僕達ライバルだね!」

「……は?」

「柚月さん! 僕と茶トラ、どっちと付き合いたいですか?」

「…………はぁ?」

 さあ、選べ! とばかりにグイグイ迫ってくる、大澤凪と茶トラ。

 その2択……何なの? もしかして強制?