「夏ですよ、真綺さん。さて、夏と言えば?」

「……夏だねえ」



 やる気のない返事をした私に、後輩の佐竹ちゃんは思いっきりしかめ面をした。



「なんですか真綺さん。その覇気のない返事は」
「……覇気も何も…………」
「いいですか。夏は戦争です。火花です。花火です。浴衣です!」


 ぐっ、と握りこぶしを作る彼女を半眼で見つめると、しゅん、と彼女が目に見えて凹む。


「真綺さんがあ……浴衣を断固として着てくれない…………」
「何言われても着ないって言ってるでしょ」


 入ってくる風は湿度を含んでぬるく、少し気持ちが悪い。

 ジリジリと照りつける太陽は真夏の象徴そのものだ。連日太陽さんもお疲れ様。お休み無しでよく頑張るよね。


 彼女と私は空調の効かない更衣室で昼食の真っ最中だ。 喉を通る冷やし中華だけが唯一の救い。 汗でべとつく肌に辟易する。精神の疲れは肉体の疲労をもたらす。

 ……ん? どっちが先だろう?



「真綺さん。もう一度聞きますよ。夏といえば?」
「汗臭いTシャツ」
「趣旨が変わった!」


 もういいもん、とふてた佐竹ちゃんがどこかへ電話をかけ始めた。こらこら。食事中ですよ。お行儀が悪いよ。



「あーもしもし。お疲れ様ですー。突然ですけど、明日の花火大会もちろん真綺さんと二人で行きますよね? ……え? 配達? いやいやいや。何考えてるんですか? 今すぐ早い時間に変更してもらって下さい…………当たり前でしょ」


 まさか。



 一瞬で心臓が冷える。慌てて彼女のケータイを取り上げようとするけど、華麗に避けられて手が空を切った。


「はい。もちろん。仙台主任に押し付けちゃいましょ。……で、ああ待ってくださいよ本題本題。藤岡主任、花火大会に行く女の子の格好なんですけど。浴衣と洋装、どっちがいいですか?」
「佐竹ちゃん!!!」

 耐えきれなくて悲鳴を上げた。よりによって本人に、そんなこと。

「……え? 真綺さん? いませんよそんな聞き違いですよはっはっは。んで? どっちです? 浴衣? 浴衣ですよね? ってああああああああ!!」

 とうとう捕まえる。取り上げる。

「奏汰さん今のは聞かなかった事にしてください。では」


 返事も待たずにぶっち切った。電話越しに戸惑う気配が伝わってきたけど、気にしない。

「……あーあー。せっかくのチャンスを…………」
「何がチャンスなの!」

 珍しく(ちょっとだけ)真面目にキレた私を察したか、佐竹ちゃんはごめんなさい、と素直に謝った。

「でもいいです。貴重な発言を入手出来たので」
「え……?」

 おとなしそうな仮面を被った彼女はにやり、と悪魔の素顔を覗かせた。

「名前呼び。聞いちゃった」


 彼女に鉄拳制裁が下ったのは言うまでもない。

 





# # #







 夏。花火大会。

 とくれば、やる事は一つと決まっている。


「なんで仕事なのー? 配達とかマジ無理。俺だって女の子たちとうふふって花火見に行きたいー」
「きも」

 配達エリアをまとめた紙でバタバタと作業台を叩きながら暴れていた仙台主任に言葉の暴力が突き刺さる。仙台主任は言葉を無くしてポトリ、と手から書類を落とした。

「……聞き違い、だよね? 佐竹ちゃん?」
「いえ? きも、と確かに申し上げました」

 
 仙台主任の顔がみるみる涙目に歪む。佐竹ちゃんはそれに見向きもせず、バタバタと忙しなく動き回りながらオードブルの確認をしている。
 ある意味鬼だわ、この子。知ってたけど。



 今日は地元で行われる花火大会の当日だ。宴会日和のこの日は毎年、数多くのオードブル注文が殺到する。年末、クリスマスシーズンの次に忙しい日だと言っても過言ではないかもしれない。
 配達に手違いがあっては大変だ。チェックは念入りに、何度も。配達人から電話がかかってこようものなら生きた心地がしなくなる。




「真綺さああん!! 聞いた? 今の。年上にする言葉遣いじゃないよね!!!」
「聞いてた。言い方は良くないと思うけど私も佐竹ちゃんに一票かな」
「酷い?!」

 残念ながらあなたには諸々前科があってその点に関しての味方はいないのです。そろそろ自覚しなさいね。

「はい、OKです。お待たせしました」

 一通りの確認を終えたようだ。佐竹ちゃんが特大保冷バックを押し出して仙台主任に託す。


「どうせ僕には一人も味方なんて居ないんだ。うええええん行ってきますぅぅぅ」

 そうさせたのは自分だってことを完璧に彼は忘れている。敢えてここでは何をしたかは言わないでおくね。彼の名誉のために一応。

「お疲れ様です」


 入れ違いに、「彼」が入ってきた。

 今日もいいバリトンが響いて、私の視線をそこへ釘付けにする。

 藤岡奏汰。私の一つ年上の人。そして。

 恋人。

 そんなこっ恥ずかしい名称を私たちの間につけたくはないけれど、一言で説明するなら、そうなる。


 一昨年の誕生日に付き合い始めて、今年で二年だ。穏やかな彼との間には喧嘩もほとんどなく、我慢のさせすぎじゃないかと思うくらい甘えさせてくれる。仕事との線引きはちゃんとしてくれるから、誰かから羨ましがられたり嫌味を言われることもほとんど無い。時々からかわれるくらいは……この際、我慢している。

 製造室へ入ってきた彼は、土曜日だけど仕事を意識してか、ワイシャツにスーツのズボンを履いていた。高身長だから、その姿がまた良く似合う……なんて言ったら、背を気にしてるどこかの誰かさんがむっとしそうだ。

 うん。今日もかっこいい。なんて、惚けたら絶対佐竹ちゃんの美味しいネタにされるに決まってる。

 目だけで挨拶すると、にこっと微笑まれた。心臓に悪いからやめて。とか言ったら困惑するんだろうな。どうせ無意識だから。


「藤岡主任は真面目なんだからもう。配達なんか誰かに押し付けちゃえば良かったのに」
「この忙しいのに誰も空いてる人いないでしょ。というか当たり前のことだからね。仕事は仕事です」
「そういうきちんとけじめをつけてるところがまた真綺さんは好きなんでしょうけどね」

 佐竹ちゃんがさらりと爆弾を投下したのが耳に入った。思わず手元を見ていた視線が上がって、彼の目とぶつかる。

 瞬間、かああっ、と彼の体温が上がったのが一目で分かった。

 照れてる、のかな。
 可愛い。

「……佐竹ちゃん、あんまり年上をからかわないでくれる?」
「事実を述べただけで……あれ。二人とも顔、真っ赤ですよ」



 その悪い顔はどう考えても確信犯でしょう、あなた。

 やっぱり佐竹ちゃんは、悪魔だ。

「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」

 出かける間際、彼がちらっとこちらを見てケータイを掲げた。続いて車に乗り込む音。
 
 奏汰さんの運転する車が遠くに走り去ると、ようやくほっと一息つけた。まだ洗い物少し残ってるけど、ちょっとだけ休憩……


「さあ真綺さん!! こっからが本命です!!! 秒速で片付けていざ花火大会へ!!」

 出来なかった。
 気合いの入りまくっている佐竹ちゃんに引きずられ、洗い場へ強制連行される。
 いやいや、落ち着いて佐竹ちゃん。音速とかならまだわかるけど、秒速ってただの単位だから。全然速さ伝わらないから。


 その時、私のケータイがメールの着信を告げた。

「分かった。分かったから離してよ佐竹ちゃん。ちょっとメールが今来たから、それだけ見たら行くから、ね?」


 あっけなく彼女は腕を開放してくれた。
 また怒り出さないうちに、と思って慌てて確認する。差出人は想像がついていた。だってさっき、彼がケータイをわざわざ見えるように振ったから。

『遅れるかもしれないけど、菊川橋に七時半集合で。また連絡します』
 
 ちょっと、いやかなり、嬉しい。
 少しだけでいいから、一緒に見られたら……とは思っていたけど、昨日まで本当になんの音沙汰もなかったからてっきり何も無いんだと思っていた。
 
 了解しました。
 
 そう返事をし終わる前にもう一通、メッセージがやってくる。

 そこで、固まった。

『ところでこの間佐竹ちゃんが言ってた服装の事だけど』

『個人的には、浴衣の真綺も見てみたいなとは思いますが、嫌だったら何でもいいよ。真綺と見られたらそれでいいです』


「急ぐ気になってくださいました?」
「わっ?!」

 いつの間にか背後へ回り込んだ佐竹ちゃんにびっくりして、ケータイを取り落としそうになる。

「読んでませんよ。大丈夫ですよ。さあ、浴衣着るために一刻も早く家に帰りましょうね」
「やっぱり見たでしょ!」

 見てない見てない、と手のひらをひらひらさせる彼女のことは、絶対信用しない。