僕は息をするのも忘れるくらいに釘付けになっていた。
それくらい彼女のダンスが美しかったからだ。
大学の友人と美術館に行く約束をしていた僕は、待ち合わせ場所である公園へと歩を進めた。
公園の隅には満開の桜の木が一本ある。
毎年、そこで花見をする人も少なくない。
が、今日は誰も花見をしていないようだ。
その代わりに桜の木の下で、一人の少女が踊っていた。
僕は息を飲んだ。
ダンスの知識なんて少しもないけれど、美しいと思った。
ひらりと散っている桜の花びらが、彼女のダンスをさらに引き立てている。
時折吹く風が、彼女の着ている真っ白なワンピースをフワリと揺らす。
それと同時に花びらが舞い上がり、彼女はくるりと一回転した。
僕にはそれが、桜の花びらと遊んでいるようにも見えた。
ひらりひらりと舞う花びらと、フワリと揺れるワンピース。
彼女の黒くて長い髪さえも美しく踊っているようだ。
ただ一つ僕は不思議に思ったことがある。
なぜ、彼女は涙を流しながら踊っているのか。
気づくと僕は彼女に声をかけていた。
「どうして、泣いてるの?」
僕はなぜ声をかけてしまったのだろう。
怪しいやつだと思われただろうか。
彼女は踊りを止め、大きな瞳で真っ直ぐに僕を見ていた。
「嬉しいから泣いてるの」
彼女は透き通るような声で静かに、でも確かにそう言った。
「嬉しいのに泣いてるの?」
嬉しかったら普通は笑わない?と僕は彼女に問いかける。
すると彼女は首を横に振りこう言った。
「私、笑えないの。泣くことしかできない…生まれた時からそうなってる。でもね…」
彼女は桜の木を見上げ、くるりくるりとステップを踏んだ。
「今日はいいの。笑ってもいいの。最後だから…今日がこの木の下で踊れる最後の日だから」
笑った。泣きながら綺麗に笑った。
つられて僕も笑う。
もっと、ずっと見ていたい。
彼女のダンスを、踊っている姿をずっと見ていたい。
今日初めて彼女と会ったのに、僕は彼女に恋をした。
彼女のダンスに、涙に、声に、笑顔に…恋をした。
名前が知りたい。彼女の名前を僕は聞いてみたい。
「…君の名前を聞いてもいいかな?」
僕がそう言うと、彼女は頷く。
ドクンドクンと心臓がいつもより激しく動いているのがわかる。
名前を聞くだけなのに、僕の中には今まで味わったことのない感情で溢れている。
そして彼女の口を動きかけた瞬間…
「遅くなってごめんな!」
約束していた友人が来てしまった。
タイミング悪いなぁ、と思いながらも友人の方に顔を向ける。
「いやぁ、時計壊れてたんだよ。起きたら約束の時間でさ、ほんとびっくりしたよ!」
アハハハ、と友人は一人笑っている。
何がおかしいのか僕にはわからないが、今回は友人が遅れてきたおかげで彼女に出会えた。だから、許すよ。
「じゃあ、早く行こうぜ。急がないと時間ない」
「ちょっと待って」
急かす友人に、僕は言った。
「まだ、名前を聞いてないんだ。彼女の名前。」
「誰のだよ?」
「そこにいる彼女だよ…あれ?」
桜の木の下にはもう彼女はいなかった。
「さっきまでいたのになぁ」
もう帰ったのかな…名前、聞けなかったな。
少し残念な気持ちを抱えながら、友人と美術館へ行った。
「俺ね、お前に見てほしい絵があるんだよ。俺のお気に入りなんだ」
友人は何回かこの美術館に来たことがあるらしい。
「桜の木と少女ってテーマなんだけどさ。すごい綺麗な絵なんだよ!特に白いワンピースを着た女の子が泣きながら踊ってる姿が綺麗でさ!」
僕は耳を疑った。
友人がしているのは今から見る絵の説明。
でも、それは僕がさっき出会った少女そのものだ。
桜の木、白いワンピース、泣きながら踊っている…。
まさか、と思った。
「…その絵が描かれた場所ってわかる?」
「えーと、たしか…あ、さっきの公園だよ」
その時、ちょうど絵の前に着いた。
「えっ!」
驚きの声を上げたのは友人だ。
なぜ友人が驚いたのか、僕は絵を見てわかった。
絵の中の少女が笑っているからだ。
さっきの友人の説明では「泣きながら踊っている姿」と言っていた。
けれど、少女は笑っている。
ふと、僕は友人に問いかける。
「最後って…今日が最後って何のこと?」
友人は絵を見上げる。
「この絵、今日の夜燃やされるんだ。今日みたいにたまに絵が変わってたりするんだよ。…それを呪いだなんだって言う奴がいてさ」
俺はそこが好きなのに、と友人は悔しそうに言った。
そうか、だから今日が最後なんだ。
僕は作品名を見る。
【テーマ・桜の木と少女 作品名・舞】
僕の頬に一筋、涙が溢れた。
舞、それが君の名前か。
…さようなら、舞。
僕が好きになった人。
そう心の中で絵に向かって言って、僕は微笑んだ。
その瞬間、少女が笑顔でくるりと回った気がした。
END

