その晩、アロイスは具合が悪いと言って、早目に寝室へ入った。そして、早目に魔界へ向かう。ゼノンは仕事で迎えに来られないと言うので、初めて…魔界へ行く。と言っても、姿見に手を触れて、王城の自室を思い浮かべるだけでいい。慣れていないと、多少の誤差が出るらしいが、城の敷地は広いので、少し違う所へ出たとしても、知っている場所に出るだろう。
「思っていたよりもずれてしまったか」
 アロイスが出たのは、自室とは対極に位置する塔の階段だった。普段であれば、歩いて移動する所だが、今は一刻も早くゼノンに会いたい。そこでアロイスは、少々はしたないと思いながら…外から光を取り込んでいる窓から身を乗り出そうとした時。上から、誰かが降りて来る。慌てて窓から離れた彼女の所へやって来たのは、少年のような顔をした青年。彼女は女性にしては長身だが、それよりも小柄だ。シェーンブルンの女性たちと同じか、下手を打つと……それよりも小さいかも知れない。
「あんた、誰だ?」
 癖のある金髪に、大きな赤い瞳。襟と袖口以外は真っ白なスーツに、立て襟でグレーのシャツを合わせ、赤いスカーフをアクセントにしている洒落た出で立ち。シェーンブルンの西方にある、流行の発信源トリアノン王国で生まれ育った貴公子と言った雰囲気だ。しかし、大きな赤い瞳は煌々と輝き、薄い唇に半端な笑みを浮かべるその表情を見て、彼女は腰を抜かす。本能が彼を恐れ、最早生きる事を諦めようとしている。
「いや、やだ……」
 普段とは違う、少女らしい声を震わせる彼女は、足腰の力が抜けてしまい、階段に尻餅をつく。腰と同じ高さに手を着こうとしたはずが、下る側に背中を向けている為、二つ下の段に手を着き、バランスを崩す。すると、男を見上げる格好になる。
「ああ、いいなあ…あんた、美人で…………すげえ美味そう」
 ニタリと笑った男は、舌なめずりをしながら、まるでいたぶるように…ゆっくりと、彼女に近付いていく。
「やめて……」
 彼女は、確信した。この男が、エーリヒだと。このままでは、自分は殺されてしまう。死にたくはないが、どうすれば助かるか分からない。
「ごめん、無理だわ」
 表情のない、冷めた顔付きになったエーリヒは、ゆっくりと……彼女の首目掛けて、手を伸ばす。彼女は、堅く瞼を閉ざしながら、心の中でゼノンを呼ぶ。
「大丈夫ですか?」
 ゼノンではない。しかし、助けに来た者がいるのは確かである。ゆっくり目を開くと、顔の前でピンクの髪が揺れていた。メイド長のリリスである。
「お前は……ああ、そうだな。今日はやめておこう」
 リリスの顔を見て、エーリヒはつまらなそうに呟いた後、その身をコウモリに変え、窓から逃げ去っていく。それを見て、安心した彼女は、気を失ってしまう

「アロイス、アロイス。ああ、よかった……目が覚めたのか」
 ぼんやりと、黒の中に浮かぶ銀色が見え、それは徐々にゼノンの顔となる。夫の顔が認識出来た途端、彼女は彼の首にすがりつく。
「こわかった、こわかったよ……っ」
 子供のようにおいおいと泣く彼女を彼は力いっぱい抱き締める。その体温に安心した彼女は、更に涙が溢れてしまう。
「ごめんよ、ごめん……やはり、迎えに行ってあげるべきだった」
 その夜……彼女は一晩中泣き続け、彼はそんな彼女をずっと抱き締めていた。