ゼノンの笑顔を見て、アロイスの気持ちも落ち着く。一見すると、恐ろしい外見だが…内側にある優しい心を知っている彼女には、誰の笑顔よりも美しく見える。思わず、女性の姿になってしまうほど。
「君の方は大丈夫かい?」
「ああ、実は……」
「まったくもって大丈夫ではありません」
 後ろから、ヴィリバルトが覗き込んで来た。その顔には、焦りと疲れが見て取れる。一瞬で、急を要する事態を察した彼女は真剣な表情で、ヴィリバルトに問う。
「一体、何があった」
「魔界で裁く事すら難しい大罪人は、冥界の底にある牢獄に捕らえておくのですが……そこから、とんでもない奴が逃げ出しました」
「とんでもない奴?」
「エーリヒ・フォン・ブルトシュミット」
「ブルトシュミットだって?」

 ヴィリバルトの一族、ブルトシュミット家は由緒ある吸血鬼の家系である。千五百年前から、生前のゼノンに仕えており、亡くなった後は代わりに魔界を治めていた。ヴィリバルト自身は次男で、以前は魔力を効果的に運用する方法(通称、魔術)の研究をする学者だったが、ゼノンを復活させる術を見付けた功績を認められ、現在は宰相の地位にいるらしい。
先代宰相の息子たちは、長男のヴィルヘルム、次男の彼、三男のヴァルター…そして、異母弟エーリヒの四人兄弟。その異母弟は、千年に一度産まれる突然変異体、グールである。グールは、人の生き血ではなく人の体を食う。しかし、そんなグールに産まれた者たちの多くは、犯罪者や死体など人間の生活に影響を与えない人物を食らうようにしている。そもそも、人の肉は血のみよりも得られるエネルギーが多い。人一人をまるまる食えば、百数年は食事をせずに過ごせるはずなのだが……。
エーリヒは、人がワインやチーズを愉しむように、あたかも嗜好品か何かのように、人を食べている。数十年の内に何百人もの人間を食べた。それでは飽き足らず、生きた人間を釜などに掛けて調理する。
魔界の住人すら恐れおののく事件を起こしたエーリヒは、同父兄であるヴィリバルトとヴァルターに捕らえられ、冥界の牢獄へ。以降の約五百年、厳重に捕らえられていたはずだったと言うのに…何者かの手によって、獣の如き犯罪者が野に放たれてしまった。

 余りにおぞましい話を聞いてしまったアロイスは、少し気分が悪くなってしまったが、魔界の女王としてはもちろん、人間の為政者としても危機を感じる。
「その大罪人の居場所は、分かっているのか?」
「ああ。どうも、未だ魔界にいるらしい。だが、いつかは人間界へ向かうはずだ」
「用心しよう」