彩華はそっとため息をつく。
そーっと別れた方がいいと思っていた。

これ以上、傷つかないし、もめないし。
自分が一晩くらい泣いて過ごせばもういいんじゃないかなって。



でも、ヒコの言うことも一理あるかも。

意を決して店のドアを開けた。

「こんばんは〜」

「あら?忘れ物でも?」

マスターが首を傾げる。

「ええ」

にっこり笑うと、つかつかと、崇城のところに足を向けた。

「彩……っ」

崇城の表情が面白いくらいのスピードで凍り付いていく。
いやだなーと、彩華は思った。
崇城には、自分の中の理想のお兄さんを重ねていたところがあって。
できればこんなときもかっこよく対応して欲しかった。

まぁ、それは望みすぎというものか。

「こんばんは」

出来すぎたくらいの笑顔で言う。

「明、仕事が忙しいんじゃなかったの?」

「今日は、珍しく早く終わって」

崇城は早口に言った。
でも、隣の林野は悪びれた風もなかった。

戦いを挑む、雌の視線。

思った以上に、恋は戦いらしい。
油断している間に、負けたということかもしれない。

「珍しく早く終わっても、誘いたいのは私じゃないってことだよね」

感情を抑えようと、棒読みみたいな台詞回しになってしまう。

……嫌だな、私、滑稽?

「彩とは、ほら、いつでも逢えるし」

……あーあ、そんなこといったら、隣の彼女、怒るよ?

「そっか。
じゃ、もう今が最後でいいや。
合鍵返すね」

キーホルダーから銀色の鍵を一つだけ外して放り投げる。

「バイバイ、明」

……なんて嘘つきな、私!

泣き出す前に踵を返して、心の耳を全部ふさいだ。

だから、崇城の最後の言葉は、彩華の耳には届かなかった。