愛しい人

「……まさか」

 思わず口に出してしまいとっさに口を手で覆う。

「どうしたの? 小石川さん」

樹は不思議そうに花名を見つめる。

「いえ、その。そろそろ開店準備を始めないと、と思って」

 花名は樹から視線を逸らすとまるで逃げるように椅子から立ちあがった。そして、畳んでカウンターの内側に置いてある店のエプロンに手を伸ばす。

「本当だね。もうこんな時間だ。僕にもエプロン出してくれる?」

「ああ、はい。予備のものを出しますね」

 花名は店の奥にあるスタッフ用のロッカーから薄いビニールの包まれたクリーニング済みのエプロンを取り出すと、樹に手渡した。

「ありがとう。これ付けるの久しぶりだな」

 樹は少し色あせたブラウンのギャルソンエプロンを手早く腰に巻いた。縦のラインが強調されて、ただでさえスタイルの良い樹がより素敵に見える。

「なんか気合が入るな。でも、色々と忘れてることもあると思うから、ご指導よろしくね。小石川さん」

 そう樹に言われて、花名は恐縮する。

「そんな、マネージャーに教えることなんて私にはありませんよ」

店舗に出ていたのは数年前とはいえ、樹はフラワーアレンジメントやブライダルの装花コンテストでの受賞歴もある。さらには、佐倉園芸が運営するフラワーデザインスクールの講師も務めている。

そんな樹に指導なんて、出来るはずがない。むしろ花名が学ぶ立場だ。

「私の方こそ、ご指導よろしくお願いします」

 深々と頭を下げると、樹も同じように頭を下げる。

「こちらこそ」

もっとえらそうにしていてくれたらいいのにと花名は思うが、この腰の低さが樹のよさでもある。

社長の息子という立場を利用したりせず、常に社員と同じ立ち場にいることで多くの信頼を得てきた。だからこそ、彼を慕う社員は多い。花名もその一人であることは間違いなかった。