愛しい人

 翌朝花名はいつも通りの時間に出勤したビルの裏手にある通用口から入って、店の入り口のカギを開ける。

隣にあるコーヒーショップはもうすでに開演準備を終えているのだろう。香ばしいコーヒーの香が花名の鼻腔を抜けていった。思えば昨日の昼以降何も食べていない。

お腹を空かせた花名は小銭入れを握り締めて、隣の店に入った。

「いらっしゃいませ。ああ、隣の花屋さん」

 同い年くらいの店員が人懐っこい笑顔を花名に向けてくれる。

「カフェ・ラテ下さい。それと、シナモンロールひとつ」

「――あと、ブレンドコーヒーもお願いします」

 背後から突然かけられた声に驚いて振り返ると、私服姿の樹が立っている。

「マネージャー! どうしたんですか? 日曜日はお休みのはずですよね」

「うん、そうだよ。昨日の夜にバイトの子から休みの連絡が入ってね」

「だからって、わざわざ樹さんが出てこなくても……」

 ほかにも調整がきくバイトスタッフが大勢いるはずだ。樹がわざわざ代理で出勤する必要なんてない。

「たまに店舗スタッフの仕事をするのも勉強になるんだよ」

 確かにそうかもしれない。けれど、自分の休日をつぶしてバイトの代理で出勤するんなんてなかなかできることではない。

「マネージャーは本当に仕事熱心なんですね。尊敬しちゃいます」

「そんなことないよ。でも嬉しいな、小石川さんにそう言ってもらえて」

 いいながら樹は店員にクレジットカードを差し出した。

「彼女の分もこれでお願いします」

「まってください。自分の分は自分で払います」

 慌てて財布を開こうとすると樹は手で制する。

「いいから。僕の顔を立ててよ」

 樹にそう言われてしまうと、これ以上抵抗するのも気が引けた。

しかも、レジ前で払う払わないの押し問答を繰り広げるのは迷惑だろう。

次の機会にお返しをすることにしよう。

花名はそう考えた。

「ごちそうさまです」

 お礼を言って丁度出来上がったカフェ・ラテとシナモンロールを受け取る。
花屋に戻り、花名は樹とカウンターの中にある椅子に並んで座った。