愛しい人

 花名は作業を再開する。始業時間までにはまとめられそうだ。資料をめくりながら慣れないキーボードを必死にたたいた。

「頑張ってますね」

 コトリとコーヒーのカップが置かれて花名は顔をあげた。てっきり樹が戻ってきたのだと思っていたけれど、そこにいたのは全くの別人だった。

色素の薄い茶色の髪は、肩につくくらいの長さで、下がった切れ長の目はとてもやさしそうだ。華奢でダボっとした服装をしているので女性と見間違えてしまいそうだが、明らかに男性だ。

「……あの?」

 不安そうな目でその人を見る。すると彼はゆっくりと口を開いた。

「驚かせてごめんね。佐倉桂です。はじめまして」

「桂、さん。……は、はじめまして! 小石川花名です」

 慌てて椅子から立ち上がると、花名は勢い良く頭を下げる。名前は聞いていたけれど、樹の兄である桂と顔を合わせるのはこれが初めてだった。桂は会社の行事には一切顔を出すこともなく、本当は存在しないのではないかとまで言われていた。

「顔、あげてください」

 穏やかで優しい声だった。花名はゆっくりと顔をあげる。

「作業の邪魔だったかな」

 申し訳なさそうな顔をする桂に花名は首を振って否定した。

「いえ、とんでもありません」

「ならよかった。どうぞ座って」

「はい、失礼します」

 遠慮がちに腰を下ろすと、桂はこう続けた。

「樹は少し強引なところがあるから、あなたも大変でしょう」

 確かに突然樹の補佐にと言われた時には驚いたが、もともとは自分の蒔いた種だったし、仕事を無くすよりはましだ。

「いえ、樹さんにはとてもよくしていただいてます」

「そうですか。樹が無理やり異動なんてさせたから、心配で声をかけたんだけど……もし、店舗の販売業務に戻りたいというならいつでも相談にいらしてください。あ、コーヒー飲んでくださいね」

「ありがとうございます」

「じゃあ」といって桂はオフィスを出ていってしまった。別の階にある総務部にでも戻ったのだろうか。

(そう言えば、昨日辞令を受け取った時は桂さんはいたのかしら。さすがにスーツ姿の社員の中に私服姿の人がいれば気づくはずだけど……)