少年に別れを告げる日

その日の伊織は気を抜いていたわけではない。ただ、いっぱいいっぱいだった。龍虎とのこともあって、どうすればいいのかわからなくて、悩んでいたのだ。

考え事をしていれば、自然と周囲に気を配れなくなる。武道をやっている人ならまだしも、普通の人の気配に気付けないなんて、普段の伊織にはありえないことだった。

「っ!」

いつも気にしていた着替え。誰もいなかった教室に、忘れ物をしたのかクラスメイトが戻って来た。

目が合ったのは一瞬だった。クラスメイトの視線がどこに向けられているのか、伊織にはすぐわかった。

「鷹栖、お前……」

さらしに馴染みはなくとも、胸のあたりに布を巻きつけている意味はなんとなくわかったのだろう。ただでさえ伊織は女顔だ、華奢だとからかわれたことがある。

「なんだ」

伊織はすぐに体操着を着て、何でもない顔で言った。しかし、心臓はバクバクとうるさかった。

クラスメイトは何も言わずに伊織に背を向け、駆け足で去って行った。

「なんだよ、なんなんだよ……」

伊織はその場に座り込んだ。なぜあんな失敗をしてしまったのかわからなかった。自分が許せなかった。

「どうしよう」

か細い声が出て、不意に泣きそうになる。

「どうしよう、僕は男じゃなきゃいけないのに」

ばれてしまったらどうすればいいのだろう。もし噂が広まってしまったら、それを消すことはできるだろうか。

『心の弱さは一番の弱さだ』

龍虎の強い声を思い出す。弱くなんてないとは、もう言い切れなかった。弱い自分に気付いてしまった。

チャイムが鳴った。授業が始まるから行かなくてはいけないと言い聞かせる。のろのろと立ち上がって体育館に向かう。これほど授業に出たくないと思ったのは初めてだった。