少年に別れを告げる日

伊織(いおり)は目を覚ました。枕元の時計を確認すれば6時前。アラームが鳴るよりも早く目が覚めたようだった。起こされるよりはこちらの方が目覚めがいい。満足そうに頷いて布団から出た。

伸びをして障子を開ける。天気も良さそうでほっとする。新しい生活の始まりにふさわしい日だ。

伊織は壁に掛けてある学ランに目を移す。冬休み中に引っ越したため、今日から新しい中学に通うことになる。

「さて、走るか」

朝走るコースは決まっていた。引っ越してきたのは2週間ほど前だが、そのコースはもっと幼い頃、ここに住んでいた時に父を追いかけて走った道だ。軽く走ったら家の裏にある道場で剣を振る。伊織の朝の日課だ。

隣の部屋をのぞいてみれば、双子の妹の美織(みおり)が規則正しい寝息をたてていた。道場から戻ってきて、なかなか起きられない妹を起こすのも伊織の日課である。

ぐっすり眠っている美織を起こさないよう、静かに廊下を歩いて玄関から出た。朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、軽く準備運動をしたら走り出す。風が気持ちよかった。少し肌寒いが、このくらいの方が気が引き締まる。

「ん?」

遠くからブンッと空気を切るような音が聞こえてくる。昨日も一昨日もそんなことはなかったから、少し不思議に思いながらも走り続ける。

「よーし、あと30回!」

気合いの入った声。伊織と同じく朝から練習に励んでいる人がいるらしい。

「あ」
「え」

角を曲がったところでちょうど目が合った。

「おはようございます」
「あ、おはようございます!」

伊織がさらっと挨拶すれば、同い年くらいであろう少年もぺこりと頭を下げた。片手にはバットがあるから、あの音は素振りの音だったのだろう。

「気合い入ってますね」
「ああ、野球部なんで。あの、敬語じゃなくても全然……俺、あんま得意じゃなくて」
「じゃあ、遠慮なく。ちなみに僕は13だけど、君は?」
「なんだ、同い年かよー。落ち着いてるから絶対年上だと思った!」

急に笑顔になった少年を見て、伊織は思わず笑ってしまう。なんとなく微笑ましかった。

「あ、やべっ!こんな時間かよ。早起きしたのに朝練遅れる!」

時計を確認した少年は近くに置いてあったリュックを背負い、エナメルバッグを自転車のカゴに突っ込んだ。

「じゃあ」

軽く手を上げた少年はすごい勢いで自転車を漕ぎ始めた。伊織はなんとなくその背中を見ていた。少年が角を曲がって見えなくなったところで、名前すら聞いていなかったことに気付く。走っていればまた会うこともあるかもしれない。

***

道場に入る時は左足から。小さい頃に叩き込まれた礼法は身体に染み付いている。ここに来ると、自然と背筋が伸びる。左足から一歩、そして正面に一礼。

時計を見ると、6時半を過ぎていた。道着に着替えて無心で剣を振りたかったが、やめておいた方が良さそうだ。

正座して呼吸を整える。心を静める。剣術以外でも、心を静めることは重要だと伊織は思う。正しい判断をするには必要なこと。

立ち上がって道場から出る。出る時にも正面に一礼して、今度は右足からだ。

「そろそろ美織を起こすか」

青い空を見上げて呟く。ふと、さっき出会った少年を思い出して、少し笑ってしまった。彼は朝練に間に合ったんだろうか。