(彩花さん、僕は……)
 「気持ち悪い」、「なにそれ?」。
 駆琉の頭の中でフラッシュバックする、昔の記憶。
 誰にも言ってはいけないと決めたあの日の苦々しい記憶。
 運命の人の心の声が聞こえる、それは自分だけに与えられた非日常。
 けれど本当にそれが自分だけに与えられた能力だと言うのならば、きっとこの日のために与えられたのだ。

「彩花さん!」
 選手が入場してきた瞬間に、駆琉は叫んだ。
 選手の視線と観客の視線が一斉に自分に集まるのを感じる、だけどここで止めてはダメだ。

「楽しかったよ、リレー!」
 あれだけ水が怖くて、大会に出るのがイヤで、情けなくて、カッコ悪くても。
 彩花が水泳を教えてくれたから、水泳を好きになれた。彩花がいたから泳ぐことができた。
 キラキラと輝いている世界はとても楽しくて美しくて、駆琉はこの世界を教えてくれた彩花が。
 安西 彩花が、とても好きだった。

「あいうえお!」

 振り返っていた彩花の目が、大きく見開かれる。
 「なんで」。
 彩花の紅い唇が、確かにそう動くのを駆琉は見た。

 君の声が聞こえるんだ。
 君の呪文がずっと聞こえていた。
 君に出会う前から、僕は君を知っていた。
 君にずっと会いたかった。
 君は僕の運命の人。

 君の心の声が聞こえる、と知ったら君はきっと僕を気持ち悪いと思うだろう。
 けれどこの能力は、きっと今日のために授かった。
 君のために僕はこの能力を神様から与えられたからーーー……駆琉は大きく息を吸い込んで、叫んだ。


「ドキドキすることを考えて!」


 「あ」。
 呆然と駆琉を見つめていた彩花の口から、小さな声が聞こえた気がした。
 それは彩花の「呪文」。
 駆琉が初めて彩花のクロールを見たとき、彼女が唱えていた小さな覚悟。

 そんなこと、他の誰が知っているだろう。
 彩花しか知らない呪文が駆琉の口から飛び出して、彼女は自分の口を覆った。
 白い肌が青くなり、彩花の黒い瞳が行く宛を求めてさ迷う。

「静かにしなさい! 競泳者は用意をして!」
 スタッフが鋭い声で注意をし、駆琉は後ろに引き戻された。
 大会スタッフから激しく注意をされている間に彩花はジャージを脱ぎ、水着姿になる。
 駆琉が何とか客席に戻った頃、彩花は飛び込み台の上に立っていた。

 彼女が息を吸い込む。深く深く呼吸をして、心臓と息を整えて。
 彩花の血が、身体中を駆け巡る血が、冷たくなっていくのを駆琉は感じた。


『ドキドキすることを考えよう』


 呪文だ。
 彩花がそっと心の中で唱える、覚悟。
 まるで駆琉の耳元で囁いているかのようだった。彼女が吐き出した息さえ、駆琉には見えると思った。
 低い静かな声で、彩花はゆっくりと呪文を唱える。

『お、美味しいケーキ』
『え、映画館で見る好きな映画』
『う、馬に乗って駆けること』
『い、色んな国を旅行すること』

 それはカウントアップだった。
 落ち着いていたはずの心臓が、それに合わせて大きく鳴り出す。やかましいくらいに。
 ああ、違う。この心臓は駆琉の心臓のおと。まるで彩花と共にあるかのように鳴り響く。

「位置について」
 会場中が息を飲む。
 2コースには彩花、3コースには橘。
 この2人の因縁の対決を見ようと、誰もがこの勝負の行方を見守っていた。
 張り詰めた空気の中、1つ息を吸ってから彩花は目を開けた。


『あ、安西 彩花のーーー120秒後』


 甲高い笛の音。
 彩花がキラキラと輝く世界に吸い込まれる。
 ああ、誰が彼女を止めることが出来るだろう?
 この世界は彼女のものなのに。