3
「ゴールデンウィークにある春の大会の出場の件ですが! とりあえずメンバーが足りません!」
練習が終わってからのミーティング、ということでプールサイドにて集まった駆琉と彩花を迎えたのは、若葉の切迫した声だった。
水泳帽と帽子をとり、タオルを肩からかけた駆琉と彩花はお互いの顔を見合わせる。
「はい。スイミング同好会でも春の大会には参加できると思います」
駆琉の隣で三角座りをしていた彩花が、きちっと右手をあげてから発言した。
「良い質問ですね!」と、いつの間にやら眼鏡をかけた若葉が頷く。
「はい。ところで何で水着に眼鏡なんですか」
「さすが安西様! とても良い質問ですね! これは駆琉少年のフェチを刺激しようと思ったからです!」
「はい。それ僕の眼鏡じゃないですか」
「うるさいボケ」
「対応の差が酷すぎます!」
駆琉の訴えを無視し、水着に眼鏡の若葉は持っていた書類を見下ろした。
プールに紙なんて持ち込んで大丈夫なんだろうか、と多少不安になったが、とりあえず駆琉は気にしないことにする。
しかし、泳ぐときは眼鏡ではなくゴーグルをつけるため男子用の更衣室に置いていた自分の眼鏡を、なぜ若葉は持っているのかーーー……やっぱり考えないことにしておいた。
「実はこの大会、本番前のレクレーションの一環で男女混合リレーがあるんよ。出場するもしないんも自由やねんけど、大会に出るからにはこういうのも出たいな、って!」
「へぇ男女混合リレー……」
「そういえばそんなことやってましたね」
そんなものもあるのかぁ、なんて駆琉は他人事のように呟いた。
ゴールデンウィークにある春の大会ーーー……彩花が昨日、前田に告げていたもののことだろう。
けれど、ようやく50メートルを泳げるようになったばかりの自分が、そんな大会に出れるとも思わない。
(そもそも僕は何でスイミング同好会にいるんだろ……)
彩花はもうスイミング同好会に入って、約束は果たされたのに。
水が怖くて泳げなかった人間が、スイミング同好会で何をすればいい?
「せやねん、あんまりないやろ? フィギュアスケートとかでもチーム戦とかやって盛り上がるやん? 多分ああいうのをやりたいんやと思うんよね」
「見てる側には楽しい企画かもしれませんね。リレーとかメドレーってやっぱり盛り上がるし」
「そうそう! しかもな! 普通のリレーやったらうちらは人数足りんけど、この男女混合リレーなら男と女が各2名でええんよ。男をあと1人、何とかできたらエントリーできるねん!」
悩む駆琉をよそに、若葉と彩花は「男女混合リレー」について話し合っている。
春の大会に出られるはずがない、と駆琉は2人の会話を見守る役に徹していた。
その隣で彩花は何かに強く興味を持ったようで、若葉から大会の要項が記された書類を受け取る。
「泳法は平泳ぎとクロール、背泳ぎ……」
「第1泳者は男子で背泳ぎ、次が女子で平泳ぎ、3番目が男子でクロール、アンカーが女子でクロールって決まってるねん。私はほら平泳ぎ専門であやちゃんはクロール専門やろ? 女子はバッチリじゃない?」
「な? だから出てみぃひん?」と、若葉がキラキラした目で彩花を見つめる。
きっとこの人はお祭りとか好きなタイプなんだろうな、と駆琉は笑ってしまった。
文化祭や音楽祭で盛り上がるタイプに違いない。
「そうですね……」
彩花がチラリと駆琉を見る。
その意味ありげな視線に、駆琉はどきりとした。
「じゃあ背泳ぎできる人を探さないと」
「クロールできるヤツもな!」
若葉に書類を返しながら彩花が告げたその一言で、スイミング同好会の会長は期待のエースが男女混合リレーに出てくれることを承認してくれた、と思ったらしい。
上機嫌で書類を受け取りつつ、にこにこと微笑む。
「いえ、クロールできる人はいいでしょ」
「何でよ。4人おらんとあかんで? いくらあやちゃんが速いからって3番目は男って決まってーーー……」
「奏くんがいるから」
さらり、と彩花は言った。
ご丁寧にも隣の駆琉を指差しながら。
「は?」
「え?」
若葉と駆琉は同時に言葉を発する。
冗談かと駆琉はすぐに苦笑いを浮かべたが、彩花の顔は真剣そのものだった。
「奏くんが第3泳者になればいい。クロール、できるんだから」
確かに「クロール」はできるかもしれない。
けれどそれは、速さとかそういうのを抜きにした「できる」だ。
チラシの裏に書いたような落書きを絵画のコンクールに出すようなものではないか、他の人が描いた大作の中に自分の落書きが並んでしまうことになる。
そんなの、無理だ。
絶対にイヤ。
できっこない。
そもそも若葉だって駆琉をリレーの選手にはカウントしていなかった、「クロールできるヤツを探さんと」と言っていたくらいなのだから。
駆琉が水泳を始めてほんの1週間。
顔を水につけることが出来るようになって、ようやく1週間ってことだ。
どう考えても自分は、大会に出てもいいような選手じゃない。ありえない。
「あ、安西さん? ぼ、僕は、その、まだ1週間くらいしか水泳してないし……」
「せやで、あやちゃん! 駆琉少年にはまだ早いんちゃう?」
「でも本番前のレクレーションみたいなものなんですよね? それなら新しい人を探すよりも、スイミング同好会の会員である奏くんが出場すべきではないですか?」
「ま、た、確かにそうやねんけど」
彩花の言葉には若葉も頷き、駆琉だって頷きそうになった。
そ、そうなんだけど。そうなんだけども。
駆琉は心の中で呟く、ああ彩花にも自分の心の声が聞こえればいいのに。
そうすれば今、自分がどれだけ嫌がっているか届くはずなのに。
(僕には、そんなの、リレーとか、無理だよ)
前田と勝負したときのあの焦燥感を駆琉は思い出した。
確かに同じタイミングでスタートしたはずなのに相手だけがぐんぐんと進み、自分だけが取り残される。
その焦り、苦しみ、恐怖。
どれだけ速く泳ごうとしたって追い付けなくて、泳いでも泳いでも引き離される。
その時に感じる絶望、自分に対する苛立ち、全てがどうでもよくなるようなあの感情。
(またあんなことしないといけないってこと?)
焦ってしまって上手く泳げなくなって、息ができなくなった。
前に進みたいのに手足が重くて、水の中に吸い込まれてしまうみたいだった。
怖かった、水が。
焦ってしまう自分が、勝負が。
それを、たくさんの人の前で?
「ぜ、絶対に無理です」
青ざめた顔で、駆琉は言い切る。
若葉がへらりと笑い、「そうやんな」と言いながら駆琉の肩を叩いた。
「駆琉少年もこう言ってるし、頑張って新しい子探そ。駆琉少年、友達とかに声かけてや。助っ人でも大丈夫やからな!」
「はい」
「レクレーションだけの参加もOKやし、ほんまにこんなん遊びやから参加できんでもええわけやしな! よし、また相談しよ! 火曜日がエントリー締め切りやから!」
少し悪くなってしまった空気を何とかしようとしてくれているのか、若葉は「な?」と彩花の肩も叩く。
キツネのような顔ににっこりと笑顔を浮かべる若葉に、強ばった顔のまま彩花は小さく頷いた。
「そうですね」
(全然納得してない声だ)
ああ。
きっと彩花は思っているだろう、この人はスイミング同好会の人間のくせに大会に出ようとしないんだ。それならばなぜ、駆琉はここにいるのだ、と。
(こんなときに限って心の声が聞こえない)
君の声が聞こえたらいいのに。
更衣室に入っていく彩花を駆琉は見つめたが、彼女は駆琉を見ようとはしなかった。
君の声が聞こえたらいいのに、僕の声が聞こえたらいいのに。
「………………僕って情けないな」
男子用の更衣室に入りながら、駆琉は思わず独り言を呟いた。
「ゴールデンウィークにある春の大会の出場の件ですが! とりあえずメンバーが足りません!」
練習が終わってからのミーティング、ということでプールサイドにて集まった駆琉と彩花を迎えたのは、若葉の切迫した声だった。
水泳帽と帽子をとり、タオルを肩からかけた駆琉と彩花はお互いの顔を見合わせる。
「はい。スイミング同好会でも春の大会には参加できると思います」
駆琉の隣で三角座りをしていた彩花が、きちっと右手をあげてから発言した。
「良い質問ですね!」と、いつの間にやら眼鏡をかけた若葉が頷く。
「はい。ところで何で水着に眼鏡なんですか」
「さすが安西様! とても良い質問ですね! これは駆琉少年のフェチを刺激しようと思ったからです!」
「はい。それ僕の眼鏡じゃないですか」
「うるさいボケ」
「対応の差が酷すぎます!」
駆琉の訴えを無視し、水着に眼鏡の若葉は持っていた書類を見下ろした。
プールに紙なんて持ち込んで大丈夫なんだろうか、と多少不安になったが、とりあえず駆琉は気にしないことにする。
しかし、泳ぐときは眼鏡ではなくゴーグルをつけるため男子用の更衣室に置いていた自分の眼鏡を、なぜ若葉は持っているのかーーー……やっぱり考えないことにしておいた。
「実はこの大会、本番前のレクレーションの一環で男女混合リレーがあるんよ。出場するもしないんも自由やねんけど、大会に出るからにはこういうのも出たいな、って!」
「へぇ男女混合リレー……」
「そういえばそんなことやってましたね」
そんなものもあるのかぁ、なんて駆琉は他人事のように呟いた。
ゴールデンウィークにある春の大会ーーー……彩花が昨日、前田に告げていたもののことだろう。
けれど、ようやく50メートルを泳げるようになったばかりの自分が、そんな大会に出れるとも思わない。
(そもそも僕は何でスイミング同好会にいるんだろ……)
彩花はもうスイミング同好会に入って、約束は果たされたのに。
水が怖くて泳げなかった人間が、スイミング同好会で何をすればいい?
「せやねん、あんまりないやろ? フィギュアスケートとかでもチーム戦とかやって盛り上がるやん? 多分ああいうのをやりたいんやと思うんよね」
「見てる側には楽しい企画かもしれませんね。リレーとかメドレーってやっぱり盛り上がるし」
「そうそう! しかもな! 普通のリレーやったらうちらは人数足りんけど、この男女混合リレーなら男と女が各2名でええんよ。男をあと1人、何とかできたらエントリーできるねん!」
悩む駆琉をよそに、若葉と彩花は「男女混合リレー」について話し合っている。
春の大会に出られるはずがない、と駆琉は2人の会話を見守る役に徹していた。
その隣で彩花は何かに強く興味を持ったようで、若葉から大会の要項が記された書類を受け取る。
「泳法は平泳ぎとクロール、背泳ぎ……」
「第1泳者は男子で背泳ぎ、次が女子で平泳ぎ、3番目が男子でクロール、アンカーが女子でクロールって決まってるねん。私はほら平泳ぎ専門であやちゃんはクロール専門やろ? 女子はバッチリじゃない?」
「な? だから出てみぃひん?」と、若葉がキラキラした目で彩花を見つめる。
きっとこの人はお祭りとか好きなタイプなんだろうな、と駆琉は笑ってしまった。
文化祭や音楽祭で盛り上がるタイプに違いない。
「そうですね……」
彩花がチラリと駆琉を見る。
その意味ありげな視線に、駆琉はどきりとした。
「じゃあ背泳ぎできる人を探さないと」
「クロールできるヤツもな!」
若葉に書類を返しながら彩花が告げたその一言で、スイミング同好会の会長は期待のエースが男女混合リレーに出てくれることを承認してくれた、と思ったらしい。
上機嫌で書類を受け取りつつ、にこにこと微笑む。
「いえ、クロールできる人はいいでしょ」
「何でよ。4人おらんとあかんで? いくらあやちゃんが速いからって3番目は男って決まってーーー……」
「奏くんがいるから」
さらり、と彩花は言った。
ご丁寧にも隣の駆琉を指差しながら。
「は?」
「え?」
若葉と駆琉は同時に言葉を発する。
冗談かと駆琉はすぐに苦笑いを浮かべたが、彩花の顔は真剣そのものだった。
「奏くんが第3泳者になればいい。クロール、できるんだから」
確かに「クロール」はできるかもしれない。
けれどそれは、速さとかそういうのを抜きにした「できる」だ。
チラシの裏に書いたような落書きを絵画のコンクールに出すようなものではないか、他の人が描いた大作の中に自分の落書きが並んでしまうことになる。
そんなの、無理だ。
絶対にイヤ。
できっこない。
そもそも若葉だって駆琉をリレーの選手にはカウントしていなかった、「クロールできるヤツを探さんと」と言っていたくらいなのだから。
駆琉が水泳を始めてほんの1週間。
顔を水につけることが出来るようになって、ようやく1週間ってことだ。
どう考えても自分は、大会に出てもいいような選手じゃない。ありえない。
「あ、安西さん? ぼ、僕は、その、まだ1週間くらいしか水泳してないし……」
「せやで、あやちゃん! 駆琉少年にはまだ早いんちゃう?」
「でも本番前のレクレーションみたいなものなんですよね? それなら新しい人を探すよりも、スイミング同好会の会員である奏くんが出場すべきではないですか?」
「ま、た、確かにそうやねんけど」
彩花の言葉には若葉も頷き、駆琉だって頷きそうになった。
そ、そうなんだけど。そうなんだけども。
駆琉は心の中で呟く、ああ彩花にも自分の心の声が聞こえればいいのに。
そうすれば今、自分がどれだけ嫌がっているか届くはずなのに。
(僕には、そんなの、リレーとか、無理だよ)
前田と勝負したときのあの焦燥感を駆琉は思い出した。
確かに同じタイミングでスタートしたはずなのに相手だけがぐんぐんと進み、自分だけが取り残される。
その焦り、苦しみ、恐怖。
どれだけ速く泳ごうとしたって追い付けなくて、泳いでも泳いでも引き離される。
その時に感じる絶望、自分に対する苛立ち、全てがどうでもよくなるようなあの感情。
(またあんなことしないといけないってこと?)
焦ってしまって上手く泳げなくなって、息ができなくなった。
前に進みたいのに手足が重くて、水の中に吸い込まれてしまうみたいだった。
怖かった、水が。
焦ってしまう自分が、勝負が。
それを、たくさんの人の前で?
「ぜ、絶対に無理です」
青ざめた顔で、駆琉は言い切る。
若葉がへらりと笑い、「そうやんな」と言いながら駆琉の肩を叩いた。
「駆琉少年もこう言ってるし、頑張って新しい子探そ。駆琉少年、友達とかに声かけてや。助っ人でも大丈夫やからな!」
「はい」
「レクレーションだけの参加もOKやし、ほんまにこんなん遊びやから参加できんでもええわけやしな! よし、また相談しよ! 火曜日がエントリー締め切りやから!」
少し悪くなってしまった空気を何とかしようとしてくれているのか、若葉は「な?」と彩花の肩も叩く。
キツネのような顔ににっこりと笑顔を浮かべる若葉に、強ばった顔のまま彩花は小さく頷いた。
「そうですね」
(全然納得してない声だ)
ああ。
きっと彩花は思っているだろう、この人はスイミング同好会の人間のくせに大会に出ようとしないんだ。それならばなぜ、駆琉はここにいるのだ、と。
(こんなときに限って心の声が聞こえない)
君の声が聞こえたらいいのに。
更衣室に入っていく彩花を駆琉は見つめたが、彼女は駆琉を見ようとはしなかった。
君の声が聞こえたらいいのに、僕の声が聞こえたらいいのに。
「………………僕って情けないな」
男子用の更衣室に入りながら、駆琉は思わず独り言を呟いた。

