(そして今日から安西さんが泳いでる姿が見られるんだ)
今日は土曜日だが、若葉に言わせると「安西さんが入会してくれるなら土曜でも活動日!」らしい。
彩花もその若葉の作戦にはまり、「土曜日に練習があるなら早速スイミング同好会に入ってみたい」と言って、若葉の連絡先を聞いてきたし。
楽しみと期待で浮かれながら、駆琉は休日だと言うのに制服を着て体育館に急いだ。
彩花が泳いでいる、あの美しいクロールで。
昨晩見た夢がふと、駆琉の頭の中に浮かんで消えた。
「少年! 自分ほんま! よくやった!」
プールに駆け込むと、駆琉に気付いた若葉が飛び付いてくる。
まだ水泳帽を被っていない駆琉の頭を腕で固定し、ぐりぐりっと撫で回してからプールを指差す。
彩花と勝負するためにたっぷりと練習をした見慣れた25メートルプールを、美しいクロールが切り裂いていく。
激しすぎない水しぶきだと言うのに、前からロープで引っ張られているかのように進んでいくクロール。
「あーやーちゃーーん! 駆琉少年が来たでーー!」
駆琉の首を固定したまま若葉が叫ぶと、ちょうど25メートル泳ぎきったタイミングだったらしい、そのスイマーが泳ぐのをやめた。
25メートル先でこちらを振り返り、彼女はゴーグルを上にやる。
(あ、安西さん……)
一瞬だけ、確かにヒヤリとした空気を駆琉は感じた。
心臓の一部分が凍り付いてしまったかのようだ、彼女がこちらを向いたその刹那に。
プールサイドにあがった彼女がこちらに向かってくる、凍り付いた心臓が歪な音をたてる。
「奏くん、土曜日なのに来たんだ」
にこ、と彩花が笑う。
凍り付いた心臓が溶けた気がした。
彩花はいたって普通だ、自分が気にしすぎていただけなんだ。
ほ、と安心して、駆琉は笑顔を返した。
「そうやで! 駆琉少年はスイミング同好会の会員じゃないのに!」
「え、そうなの? 奏くんもスイミング同好会の人だと思ってた」
「あやちゃんの水着姿が見たいからここにおんねんで」
「ち、違います!」
ばんばんと駆琉の頭を叩きながら、若葉がとんでもないことを言ってのける。
誤解されてはたまらない、ここに自分がいるのはそもそも彩花の水着ではなくてクロールが見たいからいるだけだ。
若葉に頭を固定されたまま、駆琉は慌てて手をふるが「うわあ」と言いたげな顔で彩花はこちらを見ていた。
「ち、ちが、違うって! 安西さん、誤解!」
若葉の手を何とか解いて、駆琉は声をあげた。
そもそも既に入会届は出したはずなのに。
ちらり、と彩花が冷たい目で駆琉を見遣る。
「ちょっとスイミング同好会に関係ない人はプールに入らないでくださいますか」
「安西さん! ちが、違う! 若葉さんも何かいってください! 僕、もう、入会届だしたのに!」
「せやった。ごめん」
「ほらー! 僕もスイミング同好会の会員だよ、安西さん!」
「うわあ、引く……」
「なんで!?」
「駆琉少年、1度失った信頼を取り戻すんは難しいんやで」
「誰のせいですか!?」
我慢できない、と言うように彩花が声を出して笑い出した。
可笑しくてたまらないのか「あははは」と顔をくしゃくしゃにして笑い、笑いすぎてお腹が痛いと腹部を押さえる。
そうやって笑う彩花を、駆琉と若葉はポカンとして見つめる。
「安西さんがこんなに笑うのはじめて見ました……」
「ていうか、あやちゃんって笑うことがあるんやな……」
いや、そりゃ笑うに決まってるでしょ。
何をいっているんだこの人は、と呆れながら駆琉は若葉を見た。
いつものように冗談を言っているのかと思えば、若葉の顔はいたって真面目。
どうやら本気のようだ。
「いつもスカしてるって言うか、つーんとしてるって言うか……冗談でも言ったら鼻で笑う感じのタイプやと思ってたわ」
(そう言えばそんなこと、勇介も言っていたな)
彩花は完璧人間だから話しかけづらい、好きじゃない、なんて。
彩花は確かに高校生にしては大人びていて、圧倒されるような美しさを抱えている。
真っ白な肌に艶のある黒い髪。
花が咲いたような真っ赤な唇。
大きくて真っ黒な瞳、長い睫毛、小さな顔、すらりと伸びた手足。
どう見ても日本人なのに、「日本人離れした」という表現が似合う恐ろしいほどの美しさ。
「おんなじ人間やって言われても信じられへんくらい綺麗やもんな、あやちゃんって」
ああ、心臓が痛む。
溶けたはずの心臓が、じくりと痛む。
(安西さんが好きだ、笑った顔も。泳いでる姿も)
物心ついたときから駆琉には彩花の心の声が聞こえて、この声の持ち主こそが運命の人だと信じてきた。
けれど本当に自分は、彩花に相応しいのだろうか。
「私があなたを好きになるって思う?」。
桜吹雪のなか、彩花はそう駆琉に問うた。
せめて彼女を大好きな水泳に復活してもらいたい、と頑張ってはきたけれどーーー……。
(勝手に勝負とかして、しかも安西さんに代わってもらって、言い返せなくて……情けない、よね)
彩花は美しい、怖いくらいに。
そんな彩花の隣に自分は立てるのか?
彩花が好きになってくれる要素が自分にはあるのだろうか、そんなものないような気がする。
(水泳に復活したら、安西さんはもっともっと輝く……けど、僕は?)
彩花との約束のために50メートルを泳げるようになる。
彩花にまた水泳を愛してると思ってもらいたい。
その願いが叶ったとき、僕はーーー……?
僕は何を目標にしたらいいんだろう?
楽しそうな彩花の笑顔と、美しいクロールが駆琉の頭の中で何度もよみがえる。
真っ黒な水に飲み込まれていくような気がした。他でもない、自分が。
「今日はミーティングですか? 始まるまで泳いでても?」
「うん。ええで」
彩花の声に、駆琉はハッと我に返った。
「どないしたん、ボーッとして」と尋ねてれる若葉に作り笑いを浮かべ、そっと彩花の後ろ姿を見つめる。
ゴーグルをかけ直した彩花は、飛び込み台の上からしっかりとしたフォームで飛び込んだ。
『ああ、ダメだ』
じわりじわり。
駆琉の中にゆっくりと落ちてくる、彩花の心の声。
『全然ダメ』
あんなにも美しいクロールなのに。
見ている限りでは何もわからない、けれど駆琉には聞こえる。
『こんなのじゃ勝てない』
真っ黒な水が侵食する。
焦っているような彩花の心の声。
『どうして、私は』
(どうして、僕は)
『水泳をやっているんだろう』
(水泳をやっているんだろう)
じわり、と黒い水が溢れてくる。
今日は土曜日だが、若葉に言わせると「安西さんが入会してくれるなら土曜でも活動日!」らしい。
彩花もその若葉の作戦にはまり、「土曜日に練習があるなら早速スイミング同好会に入ってみたい」と言って、若葉の連絡先を聞いてきたし。
楽しみと期待で浮かれながら、駆琉は休日だと言うのに制服を着て体育館に急いだ。
彩花が泳いでいる、あの美しいクロールで。
昨晩見た夢がふと、駆琉の頭の中に浮かんで消えた。
「少年! 自分ほんま! よくやった!」
プールに駆け込むと、駆琉に気付いた若葉が飛び付いてくる。
まだ水泳帽を被っていない駆琉の頭を腕で固定し、ぐりぐりっと撫で回してからプールを指差す。
彩花と勝負するためにたっぷりと練習をした見慣れた25メートルプールを、美しいクロールが切り裂いていく。
激しすぎない水しぶきだと言うのに、前からロープで引っ張られているかのように進んでいくクロール。
「あーやーちゃーーん! 駆琉少年が来たでーー!」
駆琉の首を固定したまま若葉が叫ぶと、ちょうど25メートル泳ぎきったタイミングだったらしい、そのスイマーが泳ぐのをやめた。
25メートル先でこちらを振り返り、彼女はゴーグルを上にやる。
(あ、安西さん……)
一瞬だけ、確かにヒヤリとした空気を駆琉は感じた。
心臓の一部分が凍り付いてしまったかのようだ、彼女がこちらを向いたその刹那に。
プールサイドにあがった彼女がこちらに向かってくる、凍り付いた心臓が歪な音をたてる。
「奏くん、土曜日なのに来たんだ」
にこ、と彩花が笑う。
凍り付いた心臓が溶けた気がした。
彩花はいたって普通だ、自分が気にしすぎていただけなんだ。
ほ、と安心して、駆琉は笑顔を返した。
「そうやで! 駆琉少年はスイミング同好会の会員じゃないのに!」
「え、そうなの? 奏くんもスイミング同好会の人だと思ってた」
「あやちゃんの水着姿が見たいからここにおんねんで」
「ち、違います!」
ばんばんと駆琉の頭を叩きながら、若葉がとんでもないことを言ってのける。
誤解されてはたまらない、ここに自分がいるのはそもそも彩花の水着ではなくてクロールが見たいからいるだけだ。
若葉に頭を固定されたまま、駆琉は慌てて手をふるが「うわあ」と言いたげな顔で彩花はこちらを見ていた。
「ち、ちが、違うって! 安西さん、誤解!」
若葉の手を何とか解いて、駆琉は声をあげた。
そもそも既に入会届は出したはずなのに。
ちらり、と彩花が冷たい目で駆琉を見遣る。
「ちょっとスイミング同好会に関係ない人はプールに入らないでくださいますか」
「安西さん! ちが、違う! 若葉さんも何かいってください! 僕、もう、入会届だしたのに!」
「せやった。ごめん」
「ほらー! 僕もスイミング同好会の会員だよ、安西さん!」
「うわあ、引く……」
「なんで!?」
「駆琉少年、1度失った信頼を取り戻すんは難しいんやで」
「誰のせいですか!?」
我慢できない、と言うように彩花が声を出して笑い出した。
可笑しくてたまらないのか「あははは」と顔をくしゃくしゃにして笑い、笑いすぎてお腹が痛いと腹部を押さえる。
そうやって笑う彩花を、駆琉と若葉はポカンとして見つめる。
「安西さんがこんなに笑うのはじめて見ました……」
「ていうか、あやちゃんって笑うことがあるんやな……」
いや、そりゃ笑うに決まってるでしょ。
何をいっているんだこの人は、と呆れながら駆琉は若葉を見た。
いつものように冗談を言っているのかと思えば、若葉の顔はいたって真面目。
どうやら本気のようだ。
「いつもスカしてるって言うか、つーんとしてるって言うか……冗談でも言ったら鼻で笑う感じのタイプやと思ってたわ」
(そう言えばそんなこと、勇介も言っていたな)
彩花は完璧人間だから話しかけづらい、好きじゃない、なんて。
彩花は確かに高校生にしては大人びていて、圧倒されるような美しさを抱えている。
真っ白な肌に艶のある黒い髪。
花が咲いたような真っ赤な唇。
大きくて真っ黒な瞳、長い睫毛、小さな顔、すらりと伸びた手足。
どう見ても日本人なのに、「日本人離れした」という表現が似合う恐ろしいほどの美しさ。
「おんなじ人間やって言われても信じられへんくらい綺麗やもんな、あやちゃんって」
ああ、心臓が痛む。
溶けたはずの心臓が、じくりと痛む。
(安西さんが好きだ、笑った顔も。泳いでる姿も)
物心ついたときから駆琉には彩花の心の声が聞こえて、この声の持ち主こそが運命の人だと信じてきた。
けれど本当に自分は、彩花に相応しいのだろうか。
「私があなたを好きになるって思う?」。
桜吹雪のなか、彩花はそう駆琉に問うた。
せめて彼女を大好きな水泳に復活してもらいたい、と頑張ってはきたけれどーーー……。
(勝手に勝負とかして、しかも安西さんに代わってもらって、言い返せなくて……情けない、よね)
彩花は美しい、怖いくらいに。
そんな彩花の隣に自分は立てるのか?
彩花が好きになってくれる要素が自分にはあるのだろうか、そんなものないような気がする。
(水泳に復活したら、安西さんはもっともっと輝く……けど、僕は?)
彩花との約束のために50メートルを泳げるようになる。
彩花にまた水泳を愛してると思ってもらいたい。
その願いが叶ったとき、僕はーーー……?
僕は何を目標にしたらいいんだろう?
楽しそうな彩花の笑顔と、美しいクロールが駆琉の頭の中で何度もよみがえる。
真っ黒な水に飲み込まれていくような気がした。他でもない、自分が。
「今日はミーティングですか? 始まるまで泳いでても?」
「うん。ええで」
彩花の声に、駆琉はハッと我に返った。
「どないしたん、ボーッとして」と尋ねてれる若葉に作り笑いを浮かべ、そっと彩花の後ろ姿を見つめる。
ゴーグルをかけ直した彩花は、飛び込み台の上からしっかりとしたフォームで飛び込んだ。
『ああ、ダメだ』
じわりじわり。
駆琉の中にゆっくりと落ちてくる、彩花の心の声。
『全然ダメ』
あんなにも美しいクロールなのに。
見ている限りでは何もわからない、けれど駆琉には聞こえる。
『こんなのじゃ勝てない』
真っ黒な水が侵食する。
焦っているような彩花の心の声。
『どうして、私は』
(どうして、僕は)
『水泳をやっているんだろう』
(水泳をやっているんだろう)
じわり、と黒い水が溢れてくる。

