君の声が聞こえる

(僕はもしかして安西さんを)

 彩花が心の中で「あいうえお」を唱えてる。
 ずっと、ずっと。
 花園高校の生徒達が見えなくなっても、翔琉と話しながらプールから出るときも。
 彩花はずっと呪文を唱えてる。

(引きずり込んではいけないところに、引きずり込んじゃったんじゃないだろうか)
 「練習しないと」と彩花は言った。
 今のままじゃ全然ダメ、と。
 「明日、スイミング同好会の会長さんと話してみるね」と笑う彩花とわかれて家に帰っても、駆琉はそんな疑問に支配されていた。
 物理的にどれだけ離れたって、ふとした瞬間に駆琉の頭の中に彩花の心の声が落ちてくるものだからーーー……「あいうえお」と、彩花が唱えているのがわかるから。

(僕は選んではいけない選択を選んじゃったんだろうか)
 「今のままじゃ全然ダメ」、「もっと練習しないと」、「あいうえお」。
 じわりじわり、と彩花の心が侵食される。
 違う、これは。
 彩花が呪文を唱えるのは。
 きっと水泳に戻ることに緊張しているだけだ。
 駆琉はそう自分に言い聞かせた。


『安西さんーーー……』
 その夜、駆琉は夢を見た。
 彩花の声がするのに彩花の姿が見えない、真っ白な世界に自分だけが立っている夢。
 彩花の声と水の音がする、それなのに彩花はこの世界のどこにもいない。
 きょろきょろと辺りを見回した駆琉は、自分の指に輝いているダイヤモンドの指輪の中で彩花が泳いでいることに気付いた。

『安西さん、そんなところにいたの』
 宝石の世界にいる彩花は、2本の足の代わりに魚のような尾びれを付けていた。
 人魚姫となった彩花はダイヤモンドの中に閉じ込められていても何の問題もないらしい、駆琉の視線に気付いてにっこりと笑う。
 白い世界、白い水、ダイヤモンドの中の人魚姫。

『安西さん、泳いでよ』
 ダイヤモンドをつつきながら告げると、彩花は笑いながら頷いた。
 仰せのままに、とでも言うかのように彩花は駆琉に向かって恭しく頭を下げてから泳ぎ出す。
 美しいクロール。
 真っ直ぐに進むそれは、ダイヤモンドの中を切り裂いていく。

『あれ?』
 彩花のクロールで切り裂かれた空間がぱっくりと開き、真っ黒な水が噴き出しはじめた。
 まるで血のようなその黒い水は、すぐにダイヤモンドの中を濁らせていく。
 彩花は進むのを止め、困ったように眉を寄せた。

『安西さん、逃げて!』
 ダメだ、ダイヤモンドの中に逃げ場はない。
 どうしよう、彩花が死んでしまう。
 慌てた駆琉は指輪を抜き取ると、『安西さん、離れて』と叫んだと同時に真っ白な床にそれを叩きつけた。

 ガラスが割れる音。
 どろり、と黒い水が沸き出す。
 足が尾びれと成った彩花が指輪から出てきて、咳き込みながら上半身を起こした。

『安西さん!』
 黒い水が、壊れた指輪から噴き出し続ける。
 真っ白な世界を真っ黒に染めていく。
 半身が魚と化した彩花は、ダイヤモンドの外ではうまく呼吸ができないようだった。こほんこほんと咳き込み、元々真っ白な肌からみるみるうちに色がなくなっていく。

(どうしよう、僕はなんてことをしてしまったんだろう)
 世界が真っ黒になる、息ができなくなる。
 せめて彩花だけでも助けなければ。
 真っ黒な水はどんどん水位を増し、駆琉は彩花に手を伸ばした。

『今のままじゃ全然ダメ』
 青ざめた彩花が呟いた。
 虚ろな瞳には駆琉が写っていない。
『もっと練習しないと』
 彩花はそれだけ呟くと自ら真っ黒な水に潜っていった。
 とぷん、と泡だけが浮かび上がって。
 彩花はもう2度と姿を見せなかったーーー……。


「安西さん!」
 夢の中と現実が交錯する。
 自分の叫び声で目を覚ました駆琉は、ここが何処なのか瞬時にはわからなかった。
 見慣れた天井、天井に向けられた自分の手、携帯電話のアラームの音。
 夢だったのか、と理解すると、思わず大きな息を吐き出した。

(もう安西さんに会えなくなるかと思った)
 真っ黒な世界に飲み込まれた彩花。
 もう2度と駆琉の前で泳いでくれることもなく、駆琉の名前を呼んでくれることもない。
(あれ、そう言えば)
 ふと彩花の声を思い出し、駆琉は腹筋の力を使って上半身を飛び起こした。

「安西さん、僕を『奏くん』って呼んでくれてなかった?」
 奏くん頑張って、とか。
 奏くんの話を聞いてたから、とか。
 クラスメートだから当然といってしまえばそれまでだが、彩花が自分の名前を覚えてくれていたなんて。

「あ、安西さんが僕の名前を、よ、呼んでくれた……」
 いつの間にか記憶がねじまがり、駆琉の頭の妄想の中では彩花が「奏くん」とにっこりと笑ってくれている。
 せっかく起き上がったばかりなのに、駆琉は再びベッドに倒れ込んだ。
 体温が一気に上昇した気がする。

「やばい、死にそう」
 さっき見た夢のことなんて忘れ、駆琉は不適に笑った。
 僕は世界で一番幸せかもしれない、間違いない。

(あー……僕、いつの間にこんなに安西さんが好きになったんだろう)
 彼女があまりにも美しく泳ぐせいだろうか。