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「こんなのおかしい!」
彩花がプールサイドに上がった瞬間、まだ肩で息をしている前田が詰め寄ってくる。
怒っているせいか小柄な身体は震え、顔は真っ赤だった。
前田は彩花の隣に立つ駆琉を指差した。
「俺とこいつの勝負だったはずなのに! 何でお前が出てくるんだよ!」
鋭角な細い眉毛をますます吊り上げて怒鳴り散らす前田の剣幕に、駆琉は思わず後ずさりした。
一目見たときから「ヤンキーだ、関わらないでおこう」と思ったくらいの風貌だ、そんな前田が怒る様は想像以上に恐ろしい。
しかも声が大きいものだから、プールを利用している無関係の人までもがこちらを見て囁き合っている。
(ど、うしよう。怖い、けど安西さんの前で怖いから逃げるなんてカッコ悪い真似したくないし、で、も……)
駆琉はひとりっこだと言うこともあり、今まで人と喧嘩した経験なんてほとんどないに等しかった。
そもそも争い事なんて苦手で、面倒なことになるくらいならば我慢しようと思ってしまう。
そんな自分が彩花のために取引を持ちかけたことも、こんな見た目の前田と勝負を受けたことすら今は信じられなかった。
「橘さんと奏くんの会話、聞いてたから。私」
「え、そうなの」
何か言わなくては、と駆琉が思っていたところで彩花が一歩前に出てそう言ってのける。
それは前田に向けられた台詞だったが、前田よりも先に駆琉は反応してしまった。
前田と彩花がちらりと駆琉を見る。
言うんじゃなかった、と駆琉は自分の口を押さえた。
(でも、だって、安西さんが聞いてたとか予想外すぎる……)
橘さん、と彩花が呼ぶのはきっとあの女子生徒のことだ。
いつから彩花は自分と女子生徒の会話を聞いていたのだろう、掃除当番が終わってからプールに来るといっていたからすぐに来るだろうとは思っていたがーーー……。
(へ、変なこととか言ってなかったかな)
彩花をバカにされたと思って、カッとなってしまったから。
駆琉は自分の発言を思い返してみたが、勢いに任せていった部分もあるせいか細部まで思い出せなかった。
「奏くんは、ひとりで200メートル泳ぐなんて約束してなかったけど」
そして駆琉が眉を寄せている間に、彩花が前田にさらりと言い返す。
余裕綽々といった様子で水泳帽を外した彩花を、前田は睨み付けた。
「リレーにするともいってなかっただろ!」
「じゃあいいよ、もう1度する?」
え、と駆琉は声をあげそうになる。
もう1度やるっていったって、200メートル泳げるだろうか?
そもそも自分は前田に勝てるだろうかーーー……無謀だ、前田に勝てるとは思えない。
諦めではなく事実として、今の自分では前田に勝てない。
「ああ、いいけど?」
前田も駆琉に負けるなんて思ってもいないのだろう、怒り狂っていた表情に笑みが差し込んだ。
ニヤリ、と笑う不愉快な笑顔。
それを見ると駆琉はついつい、負けるとわかっていても勝負を受けたくなってしまう。
「安西さん、僕」
「本当にいいの? ちゃんと考えてみたら?」
「は?」
彩花より前に出ようとする駆琉を、彩花が制した。
その挑発的な彩花の台詞に、前田の額に青筋が浮かぶ。
自分とほとんど身長が変わらない彩花をギロリと睨み付けてから、彼は鼻で笑った。
「俺がこんな初心者に負けるわけ……」
「え? 誰が奏くんとの勝負って言った?」
彩花が1歩、前に進み出た。
自分を睨み付ける前田の目をしっかりと睨み返し、黒い髪をかきあげる。
「君と勝負するのは私。せっかくさっきはギリギリで負けたのに、今度はぶっちぎりで負けることになるけどね」
前田を指差して、彩花はにっこりと笑う。
彩花のタイムがどれくらいなのか駆琉にはわからなかったが、言い返そうと口を開いた前田が何も言えなかったところを見ると彩花のタイムは前田よりも「ぶっちぎり」で速いらしい。
「橘さんに言っといて」
指差していた手を腰にやり、彩花はそこで一度息を吸い込む。
『あ、い、う、えお』
彩花の心の声が駆琉の頭の中に落ちてきて、駆琉は彼女が何か緊張するようなことを言おうとしていると気付いた。
この呪文を彩花が唱えるとき、それはいつだって緊張しているときだ。
「安西 彩花は競泳に復活します。だから春の大会で会いましょう。そこで正々堂々、勝負しましょう、って」
チ、と前田は舌打ちしてから「わかったよ」と言い捨てた。
プールから出ていく前田を見送って、いつの間にか息を止めていた駆琉は大きく深呼吸した。
勝てると思っていた勝負で負けて、タイム的に絶対に勝てないような相手に言い返され、前田にとってはとんでもない時間だったに違いない。
(僕だけじゃ勝てなかった……安西さんがいたから……)
それに彩花は競泳に復活するって。
嬉しくて小さくガッツポーズしてしまう。
そうだ、若葉にも連絡しなければ。彩花にも改めてスイミング同好会に入るという確認をーーー……あと、もしよければ一緒に今からお祝いなんてどうだろう?
彩花に視線を向けた駆琉は、声をかけるのを躊躇して唇を噛んだ。
彩花はプールの向こう側を見ていた。
50メートル先のプールの、その向こう。
ガラスの壁の向こう側ではあの女子生徒が立っていて、彩花のことを見返している。
彼女は彩花に向かってバカにしたような笑みを浮かべると、プールに背を向けて去って行った。
『練習しないと』
ぽつり、と彩花の心の声が落ちる。
彩花の目はまだ彼女を見つめていた、明るすぎる茶色い髪をした彼女の後ろ姿を。
『今のままじゃ全然ダメ』
じわりじわり。
彩花の心がプレッシャーで蝕まれる音が聞こえた気がした。
「こんなのおかしい!」
彩花がプールサイドに上がった瞬間、まだ肩で息をしている前田が詰め寄ってくる。
怒っているせいか小柄な身体は震え、顔は真っ赤だった。
前田は彩花の隣に立つ駆琉を指差した。
「俺とこいつの勝負だったはずなのに! 何でお前が出てくるんだよ!」
鋭角な細い眉毛をますます吊り上げて怒鳴り散らす前田の剣幕に、駆琉は思わず後ずさりした。
一目見たときから「ヤンキーだ、関わらないでおこう」と思ったくらいの風貌だ、そんな前田が怒る様は想像以上に恐ろしい。
しかも声が大きいものだから、プールを利用している無関係の人までもがこちらを見て囁き合っている。
(ど、うしよう。怖い、けど安西さんの前で怖いから逃げるなんてカッコ悪い真似したくないし、で、も……)
駆琉はひとりっこだと言うこともあり、今まで人と喧嘩した経験なんてほとんどないに等しかった。
そもそも争い事なんて苦手で、面倒なことになるくらいならば我慢しようと思ってしまう。
そんな自分が彩花のために取引を持ちかけたことも、こんな見た目の前田と勝負を受けたことすら今は信じられなかった。
「橘さんと奏くんの会話、聞いてたから。私」
「え、そうなの」
何か言わなくては、と駆琉が思っていたところで彩花が一歩前に出てそう言ってのける。
それは前田に向けられた台詞だったが、前田よりも先に駆琉は反応してしまった。
前田と彩花がちらりと駆琉を見る。
言うんじゃなかった、と駆琉は自分の口を押さえた。
(でも、だって、安西さんが聞いてたとか予想外すぎる……)
橘さん、と彩花が呼ぶのはきっとあの女子生徒のことだ。
いつから彩花は自分と女子生徒の会話を聞いていたのだろう、掃除当番が終わってからプールに来るといっていたからすぐに来るだろうとは思っていたがーーー……。
(へ、変なこととか言ってなかったかな)
彩花をバカにされたと思って、カッとなってしまったから。
駆琉は自分の発言を思い返してみたが、勢いに任せていった部分もあるせいか細部まで思い出せなかった。
「奏くんは、ひとりで200メートル泳ぐなんて約束してなかったけど」
そして駆琉が眉を寄せている間に、彩花が前田にさらりと言い返す。
余裕綽々といった様子で水泳帽を外した彩花を、前田は睨み付けた。
「リレーにするともいってなかっただろ!」
「じゃあいいよ、もう1度する?」
え、と駆琉は声をあげそうになる。
もう1度やるっていったって、200メートル泳げるだろうか?
そもそも自分は前田に勝てるだろうかーーー……無謀だ、前田に勝てるとは思えない。
諦めではなく事実として、今の自分では前田に勝てない。
「ああ、いいけど?」
前田も駆琉に負けるなんて思ってもいないのだろう、怒り狂っていた表情に笑みが差し込んだ。
ニヤリ、と笑う不愉快な笑顔。
それを見ると駆琉はついつい、負けるとわかっていても勝負を受けたくなってしまう。
「安西さん、僕」
「本当にいいの? ちゃんと考えてみたら?」
「は?」
彩花より前に出ようとする駆琉を、彩花が制した。
その挑発的な彩花の台詞に、前田の額に青筋が浮かぶ。
自分とほとんど身長が変わらない彩花をギロリと睨み付けてから、彼は鼻で笑った。
「俺がこんな初心者に負けるわけ……」
「え? 誰が奏くんとの勝負って言った?」
彩花が1歩、前に進み出た。
自分を睨み付ける前田の目をしっかりと睨み返し、黒い髪をかきあげる。
「君と勝負するのは私。せっかくさっきはギリギリで負けたのに、今度はぶっちぎりで負けることになるけどね」
前田を指差して、彩花はにっこりと笑う。
彩花のタイムがどれくらいなのか駆琉にはわからなかったが、言い返そうと口を開いた前田が何も言えなかったところを見ると彩花のタイムは前田よりも「ぶっちぎり」で速いらしい。
「橘さんに言っといて」
指差していた手を腰にやり、彩花はそこで一度息を吸い込む。
『あ、い、う、えお』
彩花の心の声が駆琉の頭の中に落ちてきて、駆琉は彼女が何か緊張するようなことを言おうとしていると気付いた。
この呪文を彩花が唱えるとき、それはいつだって緊張しているときだ。
「安西 彩花は競泳に復活します。だから春の大会で会いましょう。そこで正々堂々、勝負しましょう、って」
チ、と前田は舌打ちしてから「わかったよ」と言い捨てた。
プールから出ていく前田を見送って、いつの間にか息を止めていた駆琉は大きく深呼吸した。
勝てると思っていた勝負で負けて、タイム的に絶対に勝てないような相手に言い返され、前田にとってはとんでもない時間だったに違いない。
(僕だけじゃ勝てなかった……安西さんがいたから……)
それに彩花は競泳に復活するって。
嬉しくて小さくガッツポーズしてしまう。
そうだ、若葉にも連絡しなければ。彩花にも改めてスイミング同好会に入るという確認をーーー……あと、もしよければ一緒に今からお祝いなんてどうだろう?
彩花に視線を向けた駆琉は、声をかけるのを躊躇して唇を噛んだ。
彩花はプールの向こう側を見ていた。
50メートル先のプールの、その向こう。
ガラスの壁の向こう側ではあの女子生徒が立っていて、彩花のことを見返している。
彼女は彩花に向かってバカにしたような笑みを浮かべると、プールに背を向けて去って行った。
『練習しないと』
ぽつり、と彩花の心の声が落ちる。
彩花の目はまだ彼女を見つめていた、明るすぎる茶色い髪をした彼女の後ろ姿を。
『今のままじゃ全然ダメ』
じわりじわり。
彩花の心がプレッシャーで蝕まれる音が聞こえた気がした。

