君の声が聞こえる

「奏くん! 頑張れ!」
 彩花の声がする。
 心の中に響く声じゃない、駆琉の耳に届く声。
 彩花がそこにいる、ずっと会いたかった運命の人。もう少し、ほんの少し、もう少しだけ。彩花に近付きたい、彩花の声が聞きたい。
 恐怖と言う黒に塗り潰されていた駆琉の世界から恐怖が消えて、混乱していた頭が鮮明となった。
 泳ぐんだ、せめて。
 せめて彩花のいるところまで。

(腕を回すんだ、下を向いて、膝を曲げずに水を蹴って)
 前田はもうターンして、通りすぎ様に駆琉を見るとあの不愉快な笑みを浮かべてきた。
 焦っちゃダメだ、息を吸い込め。
 身体が重い。
 けれど腕を回す度、足で蹴る度に彩花に近付ける。彩花の声が大きくなる。

『頑張って、頑張って。もうちょっと』
「頑張れ! もうちょっと!」
『大丈夫だよ、私がいるから』
「奏くん! 頑張って!」
『頑張れ、頑張ろう、負けないで』
「負けないで!」

 彩花の心の声と現実の声が交錯する。
 負けない。今ならわかる、それは相手に「負けない」のではなくて自分に「負けないで」と言うことに。
 彩花の声が聞こえるまでは動かなかった身体が動く、頭が働く。
 さっきだって「もう無理だ」と思った瞬間に身体が動かなくなった。

(ねぇ安西さん、僕はーーー……)

「まだ泳げる? 頑張れる?」
 あとほんの数メートル。
 彩花の声がすぐ近くでする、彩花が心配そうにこちらを見ている。
 自分が何もわかってなんかいなかったけれど、これだけは自信を持っていえるだろうと駆琉は思った。
 彩花は負け犬じゃない、弱くない、けれど逃げたのかもしれない。
 けれどそれがどうした、この勝負を挑んだ自分は正しかった。
 逃げたのだとしても、また立ち向かえばいいだけだ。

「安西さん、僕は!」
 ほんの数メートル先の彩花に向かって、駆琉は水を飲み込みながら声をあげた。
 彩花の心の声は聞こえても、駆琉の心の声は彩花には聞こえないから。
 苦しくても辛くても、駆琉は声をあげるしかない。
 そうしないと彩花には届かない。

「50メートル泳いだよ!」

 彩花の顔から一瞬だけ色が消えた。
 心の声も聞こえなくなって、彩花はただただ真っ黒な瞳で駆琉を見返してくる。
 水泳の動画を見たり、本を読んだりして学んだことに意味があった、と駆琉は思った。
 あとほんの少し!
 手を伸ばして、壁にタッチして彩花を見上げた。

「負けないで! 安西さん!」
 どくん、と駆琉の心臓が大きく跳び跳ねた気がした。
 天井のライトの光が当たり、彩花の真っ黒な瞳が確かにギラリ、と輝く。


『負けないよ、だって「愛してる」から』


 雷に打たれたような衝撃が駆琉の身体を貫いた。
 ゴーグルをつけた彩花が飛び込み台からプールに飛び込む、前田との距離は随分あるというのに。
 彩花が負けるはずない、と駆琉は何故かはっきりと確信した。

(愛してる、って安西さんが思った)
 愛してたのに、じゃない。
 大好きだったのに、でもない。
 現在進行形の感情が、確かに彩花の胸の中に宿った。
 駆琉は泣きそうになった、自分が頑張ることで誰かの気持ちが変わるなんて考えたこともなかったから。

 ぜぇぜぇと肩で息をしながら駆琉がプールサイドに立つと、彩花と前田は半分の100メートル近くまで泳ごうとしているところだった。
 駆琉が随分と前田と離されてしまっていたから、もちろんまだ前田の方が彩花よりも先を泳いでいる。けれどとてもじゃないが、前田に余裕があるようには見えなかった。

(フォームが乱れてる、焦ってるんだ)
 ついさっきの駆琉のように、前田は焦っている。
 彩花との距離はまだあるし、性別や筋肉量などを考えると前田が有利なのは確かなはずなのに。
 前田は後ろから迫ってくる彩花に焦り、何とか降りきろうと必死になっていた。
 追いかけている方の彩花には焦りなんてなくて、ぐるりと大きく腕を回す。

 白が駆琉の心に落ちてくる。
 何も恐れていない彩花の心の声。
 何も怖くない世界に彩花はいる。

(頑張れ、安西さん!)
 小柄な前田とスラリとし、女子にしては長身の彩花の身長差はほとんどない。
 それでも焦って小さなフォームになる前田と、のびのびと泳ぐ彩花とでは見た目だけではなく速さすら全然違った。
 ここではなくてゴールに向かおう、と駆琉は自分がスタートした飛び込み台に歩き出す。プールサイドを走っては行けないので、横目で前田と彩花を確認しながら急いだ。
 100メートルをターンしたところで、前田と彩花の差は更に縮まる。

「頑張れ!」
 150メートル。
 駆琉がスタートした飛び込み台のすぐ真下がゴールだ、そこに辿り着くと駆琉は彩花に向かって叫んだ。
 50メートル先ではちょうど前田がターンし、次に彩花がターンしたところだった。あれだけあったはずの差はほとんどない。
 聞こえていないかもしれない、けれど心でだけ思ってたって届かない。
 声に出せば少なくとも、届いている可能性がある。
 そう思ったらもう、駆琉は叫ばずにはいられなかった。

「頑張れー! 頑張れ! 安西さん!」
 彩花の腕がぐるりと回る。
 真っ直ぐに伸びる身体、ほとんど水しぶきも上がっていないのに滑るように進む。
 見惚れてしまうくらいに美しいクロール。
 あと30メートルーーー……20メートルーーー自分に近付いてくる、もう2人の差はほとんどないーーーあと10メートル。
 彩花の長い腕が前田よりも先に行く、たったひとかきで彩花と前田に差が出る……5メートルーーー壁に手をついた彩花が顔をあげ、大きくガッツポーズをした。
「安西さん! やったー!」
 駆琉も思わず拳を突き上げた。
「安西さん、勝ったね! 勝ったよ!」
 彩花が勝った。
 あんなに離されていたのに、前田はあんなに速かったのに。
 
 ゴーグルを外した彩花が白い歯を見せてにっこりと笑いながら駆琉を見上げた、そんな風に笑った顔を見たのは初めてだ。
 両手をあげて喜んでいた駆琉は、まじまじとその笑顔を見つめてしまう。
「アハハ」
 と、彩花は声を出して笑った。
 キラキラと輝く宝石の世界から、真っ黒な瞳で駆琉を見上げて。

「君の勝ちだね、奏くん」
 駆琉の胸をよぎったのは、彩花と交わした約束だった。
 『僕が50メートル泳げれば』。
 そうだ自分は泳げたんだ、ぐちゃぐちゃで情けなくて溺れそうになりながら。

「でも、僕は……安西さんが応援してくれなかったら、多分」
 泳げなかったよ。
 その言葉を制止、彩花に白い手を差し出してくる。

「私も同じ」
 泳げなかったよ。
 駆琉は彩花の声を聞いた気がした。

 溢れそうになった涙をグッと堪え、駆琉は差し出された彩花の手を握る。
(僕はーーー……君が好き。君が好きだよ)
 まだそれは言葉になんてできなかった。