1年1組 奏 駆琉

 春というものはどうしてもこうも、人の心を高鳴らせるのだろう。奏 駆琉はそう思った。
 例え自分が本命の高校に落ちて、友人はおろか同じ中学から進学してきたヤツがほとんどいないとしても、だ。この陽気のせいだろうか、そこまで悲しいとは思えない。むしろ、どんな新しい出会いがあるのだろうとドキドキした。

(と、いうことにしとかないと泣きそうだ)
 もし叶うなら本命の高校に入りたかったし、出来ることならば同じ中学の、もっといえば仲が良い友人がここにいたらよかったのに。そうすれば少しだけ、この心細さから抜け出せていたはずなのに。

『あいうえお、かきくけこ……』
 はぁ、と溜め息を吐いたときだった。駆琉の頭の中に、よく聞き覚えのある声が落ちてきた。校門入ってすぐに掲示されている、新しいクラス分けの前で駆琉はこめかみに手を当てると目を閉じた。

『さしすせそ、たちつてと……』
 「彼女」の声。
 何だか少しだけ緊張しているように聞こえるのは、自分が緊張しているからだろうか。
 どうしたって高校生活は不安で、緊張して、心細くて、なんだか少しだけ怖くて。
 駆琉は彼女の声を聞きながら息を吐き出した。聞き覚えのある彼女の声に合わせて息を吐き出すと、心細さと緊張が少しだけ解けていく。そんな気がした。

(僕の、名前も知らない「運命の人」)
 何処で出会えるのだろう、出会ったらすぐにわかるのだろうか。
 今まで何度も何度も考えた疑問がまた浮かび、駆琉は小さく頭をふった。考えたって仕方ない、運命の人なのだから、出会ったらすぐにわかるだろう。

 いつの間にか彼女の声は聞こえなくなっていた。24時間いつでも聞こえる訳じゃないから、当然だ。彼女の声はいつだって唐突に、突然聞こえてくる。
(運命の人。僕の運命の人……何処で出会えるのだろう、いつ出会えるんだろう)
 もし、もしも、わからなかったら?
 出会えなかったらどうする?
 君の声を聞きながら、僕は死ぬのだろうか。
 考え出したらキリがない。駆琉はもう一度頭を振り、頷いた。とにかく今は、友達も誰もいないところからスタートする高校生活に全力を尽くさなければ。
 そう考えながら振り返った途端、ちょうど後ろに立っていたらしい誰かとぶつかった。


黒くて長い髪が揺れる。
ふわり、と塩素の香りがした。


「ごめんなさい」
 確かに、「彼女」の声がした。

「え?」
 言葉がでなかった。
 例えば彼女と出会えたとき、言おうと思っていた全ての台詞が頭から綺麗さっぱりなくなってしまって、駆琉はただただ目の前の彼女を見つめていた。
 黒くて長い真っ直ぐな髪。透き通った白い肌。長い睫毛に厚めの唇。真新しい制服は少し大きい。けれど似合っている、と駆琉は思った。
 想像していたよりも何倍も、目の前の彼女は綺麗だった。この子が自分の運命の人なのだと思ったら胸が高鳴る、息ができなくなる。

「あの……」
「あ、え、あ、ご、ごめん!」
 彼女が困ったように眉を寄せ、顔にかかった髪をはらいながら駆琉を見上げてようやく我にかえった。駆琉が焦りつつ道を開けると、彼女は小さく会釈をしてから掲示されているクラス分けを見上げる。自分と同じ新入生なんだ、嬉しくなった駆琉はちらりと彼女の横顔を眺めた。
 つん、と通った鼻も、大きな目も、白い首も美しい。ああ、嬉しい。ようやく運命の人に出会えた。彼女こそが運命の人。もう一度、彼女の声を聞きたい。名前を知りたい。仲良くなりたい。

「ねぇ、君……」
「あーーやーーーーかーーー!」
 声をかけようとした瞬間、人込みを押し退けた女子生徒がそのままの勢いで彼女にしがみついた。平均的な女子よりも少しばかり身長の高い彼女に、平均的な女子よりもかなり身長が低い女子生徒がしがみつく様は笹の葉を求めるパンダに似ていた。その勢いに倒れかけた彼女だったが、何とか堪えると口元をゆるめる。

「おはよう、キコ」
「おはよう! ねぇねぇ何組だった!? キコはね、1組!」
「ほんと? 私も1組」
「え、ほんと?」
 駆琉の口から、思わず声が漏れた。彼女が驚いた顔で駆琉を見て、何度かまばたきをする。駆琉が未だに自分の隣にいたことにさえ、彼女は心底驚いたようだった。

「僕も1組! 一緒だ」
「ああ、うん、えっと、そうなんだ」「これで一緒にお昼とか行けるし、学校行事でも組めるね! 移動教室とかも一緒に行けるし、席も近かったらいいのにね!」
 運命の人、というよりは恋人ができたらやりたかったことを駆琉はべらべらと告げる。相手は運命の人。物心ついたときから声を聞き、彼女が何を考えていたかを聞いてきた。どんな人かということも既にわかっている。

 彼女も自分に会えて嬉しいはずだ。
 だって自分にとって彼女が運命の人であるということは、彼女にとって自分が運命の人なのだから。駆琉はそう信じていた。
(こんな綺麗な人が僕の運命の人なんて、きっと学校中が羨ましがるだろうなぁ!)
 どうしたって笑いを隠しきれない、こんな平凡な男の恋人がこんなにも美しい人なんだ。本命の高校に落ちたこととか、友人が一人もいないこととか、そんなこと駆琉は既に忘れていた。
 しかし、彼女はポカン、とした顔で駆琉を見返していた。小さな女子生徒が眉を寄せ、駆琉の運命の人を見上げる。

「彩花の友達?」
「あ、あやかっていうんだ」
 可愛い名前。ピッタリだ。
 駆琉は携帯電話を取り出しつつ、「あやか」ににこにこと笑いかける。
「じゃ、彩花。運命の人にライン教えろよ。あ、ラインまだわからない? スマートフォンに最近変えたばっかりだったはずだけど、使い方とか教えよっか?」
 ポカンとしていた彼女の、形の良い眉が大きく歪んだ。「は?」と、短い声が落ちる。物心ついたときから今まで毎日聞いていた彼女の声とは思えないほど、冷たい声が。

「近づかないでよ、ストーカー」

 待って。え?
 ストーカーって、どういうこと?
 駆琉の頭の中をぐるぐると、彼女の声が巡る。ストーカー? 何で? だって。
「君と僕とは、運命で……」
「本当になんなの? 気持ち悪い」
 行こう、と彼女は女子生徒の手を握るとさっさと駆琉から離れていった。何もかもが理解できなくて、駆琉は携帯電話を握ったまま立ち尽くす。
 だって、あの子は、確かに運命の人のはずなのに。今だってほら、頭の中で声がーーー……。

『なんなのあの人。ほんっとうに気持ち悪い。入学早々マジで最悪』
 え? 待って。