「金曜日まであとちょっとやで! 全力で教えるから絶対に安西 彩花をスイミング同好会に入会させるで!」
「はい!」
ヤル気満々の若葉の声に駆琉は大きな声で応え、そこからはもう下校時間ギリギリまで駆琉は泳ぎ続けた。
彩花の丁寧でわかりやすい指導に比べ、若葉の指導は「ここでバーーッと足を蹴る!」とか「手の動きはこう、グルン! ザシュンッ! って感じ!」だとか擬音まみれだったが熱血でわかりにくい。
けれど何となく、何度も泳いでいるうちに何となく理解できるように駆琉には思えた。
月曜日に彩花にクロールを教えてもらい、初めて頭を水に浸けることができて。
火曜日は若葉からの熱血指導を受けてビート板を使わずに少しだけ泳げるようになって。
水曜日には何とかクロールの形になって、10メートルほど泳げるようになって。
木曜日には25メートル以上泳げるようになってーーー……そして、金曜日がやって来る。運命の日。
「あ、安西さん」
金曜日の放課後、駆琉は彩花に話しかける。
ようやく長い一週間が終わった、という安堵の空気と土日の休みは何をしようかという期待が混じった教室で、ひとりだけ違う空気を漂わせながら。
「きょ、うは約束の日だよね」
「ああ……そうだったね」
緊張と筋肉痛で、駆琉の身体は酷く痛んだ。
けれど彩花は実にさらりと頷き、「なに?」と言いたげな眼差しを向けてくる。黒い瞳は落ち着いていて、駆琉を揺れることなく見つめていた。
「が、っこうのプールでいいかな。スイミング同好会の」
それは、若葉と相談して決めていたこと。
彩花との約束は「50メートルを泳げるようになったら」と言うことなのに、駆琉はまだ50メートルを最後まで泳ぎきれたことはなかった。
(ぶっつけ本番になっちゃうけど、だからこそ慣れたプールでやった方がいいって若葉さん言ってたし)
30メートルは泳げるようになったのだから、きっと大丈夫やと若葉が言ってくれたことを思い出す。
昨日と一昨日は下校時間を過ぎてから駆琉だけで市民プールに行き、閉館時間まで自主練習をしてターンの練習だって何度も何度もした。
(きっと大丈夫。50メートル、泳いだことないけど)
頭をもたげようとする不安を、駆琉は抑え込む。
泣いても笑っても今日が約束の日。運命の日だ。
泳げなければ彩花はスイミング同好会には入らない、もしかしたらその瞬間に水泳自体を完全にやめてしまうかもしれない。
(それだけは絶対にダメ)
だからこそ、泳がなければ。
「総合体育館のプールじゃダメなの?」
そう思っていたのに、彩花の口から発せられた台詞は予想外のものだった。
え、と駆琉は思わず小さな声をあげる。
「50メートルでしょ? 総合体育館のプールは50メートルプールだから、ターンとかせずに泳げるし初心者にはいいと思うけど……ターンしてから泳ぐのは疲れるし」
(よ、予想はしてたけど最悪のやつだ)
彩花にはもちろん悪気なんてないだろうし、むしろ初心者の駆琉への配慮だろう。
けれど慣れたプールで泳ぎたいと思っていた駆琉にとってみれば、それは本当に考えたくなかった台詞だった。
『悩んでる感じ? 自信ないのかな』
彩花の心の声が落ちてくる。
自信は確かにない。そもそもまだ一度だって50メートルを泳ぎきったことはないのだから自信があるはずもない。
『それとも、慣れてるプールじゃないとダメなのかな』
彩花の心の声は心配そうで、それでも彼女は「学校のプールでもいいよ」と言わないことは駆琉にはわかっていた。
彩花は水泳をやめたのだ。
大好きだったのに、と未だに思うくらい大好きだったそれを強い決意と共にやめた。
強豪校を蹴って、正式な水泳部のないこの高校に入るくらいの決意をした彩花が取引に優位なことを受け入れてくれる、なんて。
(若葉さんにも言われていたんだよね、安西さんが総合体育館のプールで泳いでるならそこで泳いでって言われるかもしれんって)
駆琉だってその可能性は考えていた。
彩花は乗り気でこの取引を受けた訳じゃなくて、駆琉だって軽い気持ちでこの取引を持ちかけた訳じゃない。
だからその時はこう言おうと既に決めていたーーー……駆琉は1度、大きく息を吸い込む。
彩花をしっかりと見返して、口を開いた。
「そのプールでいいよ」
取引を持ちかけたのは自分だ。
自分は「50メートル泳げるようになれば」とだけしか約束していない、彩花が総合体育館のプールがいいと言うならば従おう。
駆琉はそう心に決めていた。
これは駆琉にとって軽い気持ちで行った取引ではない、そして彩花にとっても軽い気持ちで受け止めた取引ではない。
(これは安西さんと僕の、勝負だ)
迷ってはいけない。
自信がないところを見せてはいけない。
見つめられた目を、見つめ返さなくてはならない。
負けたくない、ここで自分が負けてしまったら彩花はもうきっとスイミング同好会に入ってくれない。
「じゃあそうしよっか」
彩花は静かに頷く。
その後すぐに「でも私は今日、掃除当番だから先に行ってて」と続けた。
「そうなの、待ってようか?」
「ううん。先に行って、心の準備でもしておいて。今日で終わりなんだから」
この勝負に勝っても負けても。
うん、と駆琉は頷く。じゃあ後で、と彩花に声をかけて振り返るとついさっきまで駆琉を見つめていた「運命の人」の声がした。
『自信なさそうって思ったけど、意外に自信ある感じだったな』
そう見えていたならよかった。
本当は自信なんてないけれど、と駆琉は心の中で呟いて学校を後にする。
先週は咲き乱れていた桜はいつの間にか青々とした葉が目立ち始め、花の終わりを告げていた。
桜並木を自転車で駆け抜け、駆琉は総合体育館に急ぐ。急ぐことはないと頭ではわかっていても、どうしても焦ってしまった。
(50メートル泳げる、僕は50メートル泳げる! 大丈夫!)
必死に自分に言い聞かせた、不安が心の隙間に入り込まないように。
総合体育館は相変わらず広くて、自転車置き場に自転車を置きながら駆琉はふと「そう言えばここで安西さんとふたりのりしたっけ」と思い出す。
月曜日のことなのに随分と昔のことのようだ。
そもそもこのプールで彩花が泳いでいる姿を見たから、こんなことにーーー……。
「安西 彩花がこのプールで泳いでるってマジなの?」
安西 彩花?
聞き慣れた名前に、自転車をとめていた駆琉は顔をあげる。
1人の女子と2人の男子が総合体育館の入り口から中を覗き込んでいた、周りに人はいないからきっと彩花の名前を告げたのは彼女達だろう。
駆琉と同じ年くらいだが、この辺では見かけない制服を着ている。ウワサを聞き付けてわざわざ彩花を見に来たのか。
(ま、安西さんって結構顔とか名前が知られてるもんな)
入学して一週間ほどしか経っていないが、同じ学校でも他のクラスや違う学年の生徒が彩花を見に来ることも度々あった。
ご当地アイドルのように見られていた、と若葉も言っていたくらいだから他の学校から見に来る人がいたって不思議ではない。
(安西さんが来る前に違うところに行ってくれないかな)
掃除当番が終われば彩花はここにやって来る、駆琉との取引のために。
お互いの決心を賭けた勝負をするために。
だからこそ変な邪魔が入るのがイヤで、駆琉はそう思いながら彼女達の横を通りすぎようとした。
白いセーラー服でボブの髪をした女子生徒と身長の高い坊主頭の2人。
スラリとして気の強そうな女子生徒とヤンチャそうな男子2人組が持っていたスクールバッグを何気なしに見遣った駆琉は、次の瞬間には思わず声を出していた。
「花園高校?」
彩花が進学するはずだった水泳の強豪校だ。
電車で1時間ほどの場所にあるはずの花園高校の生徒が何でこんなところに、しかも何で彩花の名前をーーー……?
「何だよ」
スクールバッグに記された学校名を見て思わず立ち止まってしまった駆琉を、男子生徒達は睨み付けた。
坊主頭の2人はそのどちらともが細い眉をしているせいで迫力が凄い。駆琉は無意識に後ずさったが、どうしても聞かずにはおれなかった。
「あ、んざいさんに、何かご用ですか?」
「安西を知ってるの」
白いセーラー服の女子生徒が気どった声で聞き返す。
可愛い顔をしているが、気の強そうな顔。それが駆琉の第一印象だった。
女子にしては身長が高く、手足が長くてスラリとした体型はどこか彩花に似ているような気がしたが、声や話し方や持ち合わせている雰囲気は全く違う。
ざわざわと人の心を毛羽たたせる、そんな雰囲気の女の子。
「クラスメートです」
「へぇ」
男子達が顔を見合わせ、女子生徒の後ろでクスクスと笑う。
ニヤニヤと笑う女子生徒を含め、バカにしているような態度だった。
気どった声やその態度はとても良い印象を与えるとは言えず、駆琉はとっとと話を切り上げようと思った。
「安西がここで練習してるって聞いたけど」
「僕はよく知りません」
「クラスメートなのに知らないんだ?」
「そんなに仲が良いって訳じゃないんで」
「今日ここに来るって言ってた?」
「さぁ?」
その女子生徒は本当に、いやに気どった声で話す。
まるで自分を女王様か何かかと錯覚してるのではないか。
女王様の側に立つ従者2人はやっぱりクスクスと笑う。
「なぁんだ」
と、彼女は言った。
金髪に近い茶色い自分の髪をいじりながら、ニヤリと笑って。
「競泳をやめた負け犬の姿を笑いに来たのに」
声にならなかった。
彼女の気どった声のせいか、それともその声に込められた悪意のせいか。
駆琉はすぐにはその言葉が理解できなくて持て余す、この人は彩花を笑うためにここまで見に来たって言うの? どうして?
「小学生のときから安西と私、ライバルなの。ま、周りが勝手に言ってるだけで私は安西なんて全然気にしたこともないけど。でも安西は私に勝てないからって競泳やめたんでしょ?」
男子生徒達がクスクスと笑う。
その笑い声に気を良くしたのか、気どった声が一段と高くなる。
「中1のときは1回だけ負けちゃったけど、あの人、最後の大会に出なかったのよね。敵前逃亡みたいな? ほんっと負け犬。惨めな人」
気どった声が駆琉の心を毛羽たたせる。
不愉快だ、不快だ、やめて。
それなのに言葉にならない。
感情が追い付いて来ない、置いてけぼりで空っぽの駆琉の心を気どった声が引っ掻き回す。
「しかもスイミングスクールやめて、こんなプールで泳いでるんでしょ? 惨めすぎて笑っちゃう。笑ってほしいとしか思えないから笑いに来てやったの」
彼女は最後にケラケラと笑った。
本当に楽しそうに笑うその声のおかげで、置いてけぼりだった駆琉の感情がやっと追い付いた。
「安西さんは、惨めなんかじゃありません」
彩花のクロールが駆琉を支配する。
どれだけ上手く泳ごうとしたって、あんな風には泳げない。
たくさんの動画を見て、若葉のクロールを見たって、彩花のクロールほど綺麗なクロールは存在しない。
あんなに綺麗に泳ぐ彩花の、その泳ぎで若葉を救った彩花の、何が惨めなのか。
「安西さんは僕に水泳を教えてくれてます。安西さんはすっごく綺麗に泳いで、すっごく速いし、強くて、カッコ良くて、素敵で。だから安西さんは惨めなんかじゃーーー……」
「1回だけ大会新出して、綺麗な泳ぎだってチヤホヤされて、それ以降はどんどん遅くなって競泳をやめた安西の何が惨めじゃないの? 何が速いの? 何がカッコいいの? 何が強いって言うの?」
イライラした様子で、彼女は早口でそう言い返す。
「安西に教わってるってことはアンタも遅いんでしょ。遅いやつが私に口答えしないで」
彩花は惨めなんかじゃない。
ぐ、と駆琉は拳を握った。
「はい!」
ヤル気満々の若葉の声に駆琉は大きな声で応え、そこからはもう下校時間ギリギリまで駆琉は泳ぎ続けた。
彩花の丁寧でわかりやすい指導に比べ、若葉の指導は「ここでバーーッと足を蹴る!」とか「手の動きはこう、グルン! ザシュンッ! って感じ!」だとか擬音まみれだったが熱血でわかりにくい。
けれど何となく、何度も泳いでいるうちに何となく理解できるように駆琉には思えた。
月曜日に彩花にクロールを教えてもらい、初めて頭を水に浸けることができて。
火曜日は若葉からの熱血指導を受けてビート板を使わずに少しだけ泳げるようになって。
水曜日には何とかクロールの形になって、10メートルほど泳げるようになって。
木曜日には25メートル以上泳げるようになってーーー……そして、金曜日がやって来る。運命の日。
「あ、安西さん」
金曜日の放課後、駆琉は彩花に話しかける。
ようやく長い一週間が終わった、という安堵の空気と土日の休みは何をしようかという期待が混じった教室で、ひとりだけ違う空気を漂わせながら。
「きょ、うは約束の日だよね」
「ああ……そうだったね」
緊張と筋肉痛で、駆琉の身体は酷く痛んだ。
けれど彩花は実にさらりと頷き、「なに?」と言いたげな眼差しを向けてくる。黒い瞳は落ち着いていて、駆琉を揺れることなく見つめていた。
「が、っこうのプールでいいかな。スイミング同好会の」
それは、若葉と相談して決めていたこと。
彩花との約束は「50メートルを泳げるようになったら」と言うことなのに、駆琉はまだ50メートルを最後まで泳ぎきれたことはなかった。
(ぶっつけ本番になっちゃうけど、だからこそ慣れたプールでやった方がいいって若葉さん言ってたし)
30メートルは泳げるようになったのだから、きっと大丈夫やと若葉が言ってくれたことを思い出す。
昨日と一昨日は下校時間を過ぎてから駆琉だけで市民プールに行き、閉館時間まで自主練習をしてターンの練習だって何度も何度もした。
(きっと大丈夫。50メートル、泳いだことないけど)
頭をもたげようとする不安を、駆琉は抑え込む。
泣いても笑っても今日が約束の日。運命の日だ。
泳げなければ彩花はスイミング同好会には入らない、もしかしたらその瞬間に水泳自体を完全にやめてしまうかもしれない。
(それだけは絶対にダメ)
だからこそ、泳がなければ。
「総合体育館のプールじゃダメなの?」
そう思っていたのに、彩花の口から発せられた台詞は予想外のものだった。
え、と駆琉は思わず小さな声をあげる。
「50メートルでしょ? 総合体育館のプールは50メートルプールだから、ターンとかせずに泳げるし初心者にはいいと思うけど……ターンしてから泳ぐのは疲れるし」
(よ、予想はしてたけど最悪のやつだ)
彩花にはもちろん悪気なんてないだろうし、むしろ初心者の駆琉への配慮だろう。
けれど慣れたプールで泳ぎたいと思っていた駆琉にとってみれば、それは本当に考えたくなかった台詞だった。
『悩んでる感じ? 自信ないのかな』
彩花の心の声が落ちてくる。
自信は確かにない。そもそもまだ一度だって50メートルを泳ぎきったことはないのだから自信があるはずもない。
『それとも、慣れてるプールじゃないとダメなのかな』
彩花の心の声は心配そうで、それでも彼女は「学校のプールでもいいよ」と言わないことは駆琉にはわかっていた。
彩花は水泳をやめたのだ。
大好きだったのに、と未だに思うくらい大好きだったそれを強い決意と共にやめた。
強豪校を蹴って、正式な水泳部のないこの高校に入るくらいの決意をした彩花が取引に優位なことを受け入れてくれる、なんて。
(若葉さんにも言われていたんだよね、安西さんが総合体育館のプールで泳いでるならそこで泳いでって言われるかもしれんって)
駆琉だってその可能性は考えていた。
彩花は乗り気でこの取引を受けた訳じゃなくて、駆琉だって軽い気持ちでこの取引を持ちかけた訳じゃない。
だからその時はこう言おうと既に決めていたーーー……駆琉は1度、大きく息を吸い込む。
彩花をしっかりと見返して、口を開いた。
「そのプールでいいよ」
取引を持ちかけたのは自分だ。
自分は「50メートル泳げるようになれば」とだけしか約束していない、彩花が総合体育館のプールがいいと言うならば従おう。
駆琉はそう心に決めていた。
これは駆琉にとって軽い気持ちで行った取引ではない、そして彩花にとっても軽い気持ちで受け止めた取引ではない。
(これは安西さんと僕の、勝負だ)
迷ってはいけない。
自信がないところを見せてはいけない。
見つめられた目を、見つめ返さなくてはならない。
負けたくない、ここで自分が負けてしまったら彩花はもうきっとスイミング同好会に入ってくれない。
「じゃあそうしよっか」
彩花は静かに頷く。
その後すぐに「でも私は今日、掃除当番だから先に行ってて」と続けた。
「そうなの、待ってようか?」
「ううん。先に行って、心の準備でもしておいて。今日で終わりなんだから」
この勝負に勝っても負けても。
うん、と駆琉は頷く。じゃあ後で、と彩花に声をかけて振り返るとついさっきまで駆琉を見つめていた「運命の人」の声がした。
『自信なさそうって思ったけど、意外に自信ある感じだったな』
そう見えていたならよかった。
本当は自信なんてないけれど、と駆琉は心の中で呟いて学校を後にする。
先週は咲き乱れていた桜はいつの間にか青々とした葉が目立ち始め、花の終わりを告げていた。
桜並木を自転車で駆け抜け、駆琉は総合体育館に急ぐ。急ぐことはないと頭ではわかっていても、どうしても焦ってしまった。
(50メートル泳げる、僕は50メートル泳げる! 大丈夫!)
必死に自分に言い聞かせた、不安が心の隙間に入り込まないように。
総合体育館は相変わらず広くて、自転車置き場に自転車を置きながら駆琉はふと「そう言えばここで安西さんとふたりのりしたっけ」と思い出す。
月曜日のことなのに随分と昔のことのようだ。
そもそもこのプールで彩花が泳いでいる姿を見たから、こんなことにーーー……。
「安西 彩花がこのプールで泳いでるってマジなの?」
安西 彩花?
聞き慣れた名前に、自転車をとめていた駆琉は顔をあげる。
1人の女子と2人の男子が総合体育館の入り口から中を覗き込んでいた、周りに人はいないからきっと彩花の名前を告げたのは彼女達だろう。
駆琉と同じ年くらいだが、この辺では見かけない制服を着ている。ウワサを聞き付けてわざわざ彩花を見に来たのか。
(ま、安西さんって結構顔とか名前が知られてるもんな)
入学して一週間ほどしか経っていないが、同じ学校でも他のクラスや違う学年の生徒が彩花を見に来ることも度々あった。
ご当地アイドルのように見られていた、と若葉も言っていたくらいだから他の学校から見に来る人がいたって不思議ではない。
(安西さんが来る前に違うところに行ってくれないかな)
掃除当番が終われば彩花はここにやって来る、駆琉との取引のために。
お互いの決心を賭けた勝負をするために。
だからこそ変な邪魔が入るのがイヤで、駆琉はそう思いながら彼女達の横を通りすぎようとした。
白いセーラー服でボブの髪をした女子生徒と身長の高い坊主頭の2人。
スラリとして気の強そうな女子生徒とヤンチャそうな男子2人組が持っていたスクールバッグを何気なしに見遣った駆琉は、次の瞬間には思わず声を出していた。
「花園高校?」
彩花が進学するはずだった水泳の強豪校だ。
電車で1時間ほどの場所にあるはずの花園高校の生徒が何でこんなところに、しかも何で彩花の名前をーーー……?
「何だよ」
スクールバッグに記された学校名を見て思わず立ち止まってしまった駆琉を、男子生徒達は睨み付けた。
坊主頭の2人はそのどちらともが細い眉をしているせいで迫力が凄い。駆琉は無意識に後ずさったが、どうしても聞かずにはおれなかった。
「あ、んざいさんに、何かご用ですか?」
「安西を知ってるの」
白いセーラー服の女子生徒が気どった声で聞き返す。
可愛い顔をしているが、気の強そうな顔。それが駆琉の第一印象だった。
女子にしては身長が高く、手足が長くてスラリとした体型はどこか彩花に似ているような気がしたが、声や話し方や持ち合わせている雰囲気は全く違う。
ざわざわと人の心を毛羽たたせる、そんな雰囲気の女の子。
「クラスメートです」
「へぇ」
男子達が顔を見合わせ、女子生徒の後ろでクスクスと笑う。
ニヤニヤと笑う女子生徒を含め、バカにしているような態度だった。
気どった声やその態度はとても良い印象を与えるとは言えず、駆琉はとっとと話を切り上げようと思った。
「安西がここで練習してるって聞いたけど」
「僕はよく知りません」
「クラスメートなのに知らないんだ?」
「そんなに仲が良いって訳じゃないんで」
「今日ここに来るって言ってた?」
「さぁ?」
その女子生徒は本当に、いやに気どった声で話す。
まるで自分を女王様か何かかと錯覚してるのではないか。
女王様の側に立つ従者2人はやっぱりクスクスと笑う。
「なぁんだ」
と、彼女は言った。
金髪に近い茶色い自分の髪をいじりながら、ニヤリと笑って。
「競泳をやめた負け犬の姿を笑いに来たのに」
声にならなかった。
彼女の気どった声のせいか、それともその声に込められた悪意のせいか。
駆琉はすぐにはその言葉が理解できなくて持て余す、この人は彩花を笑うためにここまで見に来たって言うの? どうして?
「小学生のときから安西と私、ライバルなの。ま、周りが勝手に言ってるだけで私は安西なんて全然気にしたこともないけど。でも安西は私に勝てないからって競泳やめたんでしょ?」
男子生徒達がクスクスと笑う。
その笑い声に気を良くしたのか、気どった声が一段と高くなる。
「中1のときは1回だけ負けちゃったけど、あの人、最後の大会に出なかったのよね。敵前逃亡みたいな? ほんっと負け犬。惨めな人」
気どった声が駆琉の心を毛羽たたせる。
不愉快だ、不快だ、やめて。
それなのに言葉にならない。
感情が追い付いて来ない、置いてけぼりで空っぽの駆琉の心を気どった声が引っ掻き回す。
「しかもスイミングスクールやめて、こんなプールで泳いでるんでしょ? 惨めすぎて笑っちゃう。笑ってほしいとしか思えないから笑いに来てやったの」
彼女は最後にケラケラと笑った。
本当に楽しそうに笑うその声のおかげで、置いてけぼりだった駆琉の感情がやっと追い付いた。
「安西さんは、惨めなんかじゃありません」
彩花のクロールが駆琉を支配する。
どれだけ上手く泳ごうとしたって、あんな風には泳げない。
たくさんの動画を見て、若葉のクロールを見たって、彩花のクロールほど綺麗なクロールは存在しない。
あんなに綺麗に泳ぐ彩花の、その泳ぎで若葉を救った彩花の、何が惨めなのか。
「安西さんは僕に水泳を教えてくれてます。安西さんはすっごく綺麗に泳いで、すっごく速いし、強くて、カッコ良くて、素敵で。だから安西さんは惨めなんかじゃーーー……」
「1回だけ大会新出して、綺麗な泳ぎだってチヤホヤされて、それ以降はどんどん遅くなって競泳をやめた安西の何が惨めじゃないの? 何が速いの? 何がカッコいいの? 何が強いって言うの?」
イライラした様子で、彼女は早口でそう言い返す。
「安西に教わってるってことはアンタも遅いんでしょ。遅いやつが私に口答えしないで」
彩花は惨めなんかじゃない。
ぐ、と駆琉は拳を握った。

