君の声が聞こえる

「あ、あの」
 そうだ、聞かなくては。
 何故それほどまでに安西 彩花をスイミング同好会に入会させたいのか。
 新入部員を集めるために彩花を欲しているのか、それとも他の理由があるのかーーー……。
「の、野々宮さんは……」
「まぁええわ! 泳ぐで!」
 尋ねようとしたのに、ちょうどそのタイミングでパァンと若葉は両手を叩いた。
 若葉は6コースあるうちの、手前の2コースを指差す。

「こっちの2レーンは浅くしとるから、アンタは手前のレーンで泳ぎや。どれくらいできる? ビーチ板いる?」
「は、い。あ、そ、それで!」
「ここのプール、25メートルやから。50メートルの約束やんな? せやったらターンできなあかんな、とりあえず25メートル泳げるようになってからターンの練習しよ!」
「は、い……」

 タイミングが悪いとはこのこと。
 若葉の勢いに圧倒され、駆琉は差し出されたオレンジ色のビート板を手に取り頷くしかなかった。
 とりあえず泳ごう。泳がなければ彩花との約束は果たせないし、若葉に尋ねるタイミングだってあるはずだ。

(えっと、安西さんが昨日いっていたキックのやり方はーーー膝ではなくて脚を使って蹴る……)
 ビート板があるから、まずはキックの練習からしよう。
 そう思った駆琉は、昨日の彩花の指導を頭の中で思い返す。
 動画や本などでも泳ぎ方を確認したが、何よりも鮮明に思い出せるのは彩花の声だ。

(やっぱりいつも聞いてるからかな)
『あ、い、う、え、お』
 若葉に話しかけようとすればタイミングが悪かったのに、今度はバッチリのタイミングで彩花の声が落ちてくる。
 緊張したり、感情が昂ったときに呟く彩花の呪文。
 ああ、安西さんも泳いでるのかな、なんて、そう思うと駆琉は薄く微笑んだ。

(僕は「運命の人」のことを、つい最近まで何も知らなかったのに)
 ただただ頭の中に落ちてくる声を聞き、名前も知らない「運命の人」に思いを馳せる日々だった。
 それなのに今は、「運命の人」の名前を駆琉は知っている。
 その言葉が彼女の呪文だと知っている、彼女が何をしているのかも何となく想像できる。
 それがとても嬉しいと駆琉は思った。

「あ、い、う、え、お」
 彩花の真似をして小さくそう呟いて。
 眼鏡の代わりにゴーグルを付け、ビート板に少し力を借りながら、駆琉は泳ぎ出した。
 頭の中で彩花のあの美しいクロールが巡る。

(想像もしてなかったな、こうなるなんて)
 水が怖かった自分が、眼鏡の代わりにゴーグルを付けてプールにいる。
 名前も知らなかった「運命の人」のために、こうして泳ぐ練習をしている。
 そもそもこの学校に入る未来なんて、本当は自分の想像にはなかったことだ。第一志望校に落ちたからここに入ることになったんだから。
 あんなに絶望していたのに、そのおかげでここにいる。

(泳げるようになりたいな、安西さんみたいに)
 安西 彩花。
 彼女のクロールはどうしてあんなにも美しくて、力強いのだろう。
 彩花のクロールを必死に思い出し、駆琉はそれを出来るかぎり真似した。
 何度も何度も思い返し、その度に胸の奥で彩花と見た水面が甦る。

『か、き、く、け、こ』
 彩花の呪文が聞こえる。
 次に真っ白な世界がやって来る。
 ほらやっぱり。
 駆琉が泳いでいる今この瞬間、彩花もどこかで泳いでいるのだ。全く違うプールにいるのに、駆琉は彩花と泳いでいる気持ちになった。

 彼女は宝石の世界にいる。
 水中から見た水面はキラキラと輝いて、彩花がいなければ駆琉はその世界を知ることがなかった。
 宝石の世界に自分もいる、彩花みたいに泳ぎたい。彩花の泳いでいる姿が見たい。
 どうやるんだっけ。
 どうすればもっと、彩花みたいに泳げるんだろう。
 もっと泳ぎたい。泳げるようになりたい。

「なぁ少年、ちょっと休憩せぇへん?」
 若葉にそう声をかけられて駆琉がふと時計を見ると、泳ぎ始めてから既に2時間は経過していた。
 いつの間にそんなに時間が過ぎたのだろう、まだ全然泳いでいない気がするのに。
 ポカンとする駆琉に、若葉が楽しそうにケラケラと笑った。
「わかるわかる。集中してたら時間過ぎるん早いよな」
 まさか自分がプールで、時間も忘れるくらい集中する日が来るなんて。
 プールサイドにあがりながら、本当に信じられなくて駆琉は何度もまばたきをした。

「私もな、経験あるわ。集中しすぎて気が付いたら2時間くらい経ってたってこと」
「え、そうなんですか?」
「うん。中学生の頃なんやけど」
 駆琉と共に、ベンチに並んで座った若葉はショートカットの髪をかきあげた。
 外したばかりのスイミング帽を人差し指に引っかけてグルグルと回す。

「通ってたスイミングスクールにな、めっちゃ綺麗に泳ぐ小学生がおってん」
 へぇ、と駆琉は声をあげた。
 若葉が中学生の頃の話と言うならば、その小学生は年下ってことだ。
 小学生の頃と言えば、中学生なんて1つ違うだけで随分と大人に見えたし、中学生になってみたら小学生は1つ違うだけで随分と子どもに見えた。
 それなのに若葉が時間も忘れるくらい、夢中になって見るなんてーーー……。

「その頃の私は思っててん。綺麗に速く泳ぐことなんて出来へん! って。綺麗に泳ぐんならタイムが遅くなって、速く泳ぐんならフォームが乱れるのは当然や! って」
 若葉は笑いながら、やっぱり楽しそうに笑っている。
 クルクルと回るスイミング帽。

「で、コーチにめっちゃ怒られてた。お前のそれは自分のフォームがぐちゃぐちゃなんを誤魔化すための言い訳や、って。お前はフォームがぐちゃぐちゃやから速くなれんのや、って。言われれば言われるほど、ムカついてしゃかなかったわ」
 コーチの口調を真似した若葉は、そこまで言うと軽く声をあげて笑った。
 「子どもやなぁ」と、昔の自分を思い出して呟く。
 小学生から見たら中学生は大人だったのに、高校生から見たら中学生なんて小学生とほとんど変わらない。

「私は他の子より速い。速いんやから正しい。速いんやからぐちゃぐちゃでしゃあない。そう信じてたーーー……でもほんまはわかっててん、小学生の時は私がぶっちぎりで速かってんけど中学生になってからはタイムが縮まんくなって、ぶっちぎりじゃなくなってきたこと」
 帽子を回すのを止めた若葉の声は、静かになっていく。
 真新しいプールの、水を巡回させる機械音がぶぅん、と大きく響いていた。

「でも私は、その子の泳ぎを見るまで自分が正しいって思ってた。綺麗に速く泳ぐことなんて出来ん、出来るわけがない、って」
 塩素の匂いがして、駆琉は彼女を思い出す。
 安西 彩花。
 駆琉が見た水泳選手の中で、誰より速く美しく泳ぐ人。

「あの子はほんまに綺麗で、速かった」

 若葉は遠くを眺める。
 まるで今、目の前でその小学生が泳いでいるかのように。
 駆琉は彩花を思い出していた、昨日見た彩花のクロールを。

「私な、ほんまはその時、水泳がイヤになっててん。泳いでも泳いでもフォームが乱れてるって言われてタイムも縮まんくてさ、こんなん何が楽しいねん、って。私より速い人間はおらんねんから私が正しいのに、私より速いヤツ連れてこいって思ってた。速くて綺麗に泳げるヤツ見せてみろ、ってさ」

 そしてその子に出会った。
 自分よりも年下なのに速くて、何よりも美しく泳ぐその子。
「あの子がおったから私は今も水泳をやってる。綺麗に速く泳げるようになるまで絶対にやめん」
 顔をくしゃくしゃにして若葉は笑った。
「私は水泳が大好き。あの時やめてもてたら、こんな風に思えてなかった。あの子は私の恩人やねん」
 だからな、と若葉は続けた。
 ぐ、と拳を作って。

「安西さんに水泳をやめてほしくない。一緒に泳ぎたい。安西さんが水泳を諦めた、水泳をやめた、水泳なんて大嫌いって言うまで、私は絶対に認めへん。あんなに綺麗に泳ぐ子が水泳をやめるなんて、そんなん絶対にあかん」
 ああ、そうか。
 これが若葉の理由だったんだ。
 どうしても彩花を入会させたい、絶対に諦めない、と言った若葉の。

 何だか胸がいっぱいになって、駆琉は言葉が出なかった。
 若葉は彩花をアイドルとして入会させたかった訳じゃなくて、彩花を一人の優秀なスイマーとして認めていて、恩人として入会させたかったんだ。
(僕と同じだ、本当は水泳を大好きな安西さんが水泳をやめるなんてイヤだって思ってるんだ)
 そして駆琉と同じように、若葉もまた彩花の美しい泳ぎに魅了されている。
 恩人の彩花が駆琉にクロールを教えたから、若葉は彩花のためにも駆琉をこのプールに招いて理由を教えてくれたんだ。

「……安西さんはきっと……水泳が、好きだと思います」
 大好きだったのに、なんて彩花には思ってほしくない。
 だって。

(今も、僕や野々宮先輩はこんなにも、貴女のクロールに魅了されている)

「私もそう思う」
 若葉はそう言って、やっぱり顔をくしゃくしゃにして笑った。