君の声が聞こえる

 涙が止まらない。胸が苦しい。
「ごめんね、怖かった? やっぱりゴーグル付ければよかったね」
 慌てた様子で、彩花が駆琉の背中を撫でながら宥めてくれる。そうじゃないんだよ、と言おうとしても言葉にならなくて、駆琉は何度か頷いてから彩花を見上げる。
「僕、頑張るから」
「え?」
「見ててね。頑張るから」
 彩花は少しだけ眉を寄せて、疑うような視線を駆琉に向けた。
 彩花の目は、さっき水中から見た水面のようにとても綺麗で澄んでいて、その美しさに駆琉は思わず目を反らしたくなる。
 だってついさっきまで自分は、彩花のとても大切な美しいものを、悪気なんてなくたってバカにしていたから。

 けれど駆琉は目を反らさなかった。
 彩花に言った「頑張る」という、この言葉は本当だから。信じてほしかったから。
 彩花はじっと駆琉を見返してから「そっか」と小さく呟いて、水泳帽をとった。ぱさり、と水に濡れた彩花の黒髪が落ちる。
「あがろっか」
 駆琉は少しだけガックリとした。
 頑張ってね、とか期待してる、とか。
 そんな言葉をどこかで自分が期待していたのだと思うと恥ずかしくて、赤くなった自分の頬を撫でながら駆琉は「うん」と頷き、彩花の後に続いてプールサイドに上がったのだった。

「自転車借りちゃって、本当にいいの?」
 すっかり暗くなった世界。
 市民プールの前で、駆琉は彩花にそう尋ねる。
「いいよ。ここから家まで遠いでしょ、自転車に乗った方が早く着くから」
「でも」
「明日。学校まで乗ってきて。そうしてくれたら、帰りは私が乗って帰れるから」
 私の家、すぐそこだから気にしないで。
 彩花が付け足した言葉に、駆琉はそれならば、と自転車にまたがった。
 彩花よりも駆琉の方が新調が高いとはいえ、彩花はスラリとして脚が長いせいか、自転車が少し高いような気がした。

「乗りにくい? 我慢して」
 さら、と彩花が無茶苦茶なことを言う。
 駆琉が思わず彩花を見ると、彼女は前髪をかきあげながらイタズラっ子のように笑っていた。
 そうだ、彼女は同い年とは思えないくらいに大人びた外見で、「気取ってる」と揶揄されることもあるくらいなのにイタズラ好きなんだーーー……駆琉は思わず笑ってしまった。
(安西さんって、可愛い)
「なに」
 駆琉が笑ったことにム、として彩花が告げる。
「別に。ちょっと思い出し笑いしちゃっただけ」
 可愛いと思った、なんて言えるはずもなく、駆琉はそう言葉を濁した。
 彩花は納得いってない様子で「思い出し笑いってエロい人がするらしいよ」と、気取ってるとか、完璧人間と言われる安西 彩花様らしないことを言ってのけたのだった。

「じゃあ、また明日ね! 安西さん」
 携帯電話で時間を確認し、駆琉は手をあげる。
 水泳の練習で遅くなるとは家族に伝えてあるが、20時を過ぎている。早く帰らなければ、と唐突に思い出したのだ。
「また明日」
 さっきのイタズラっ子のような笑顔はなりをひそめ、彩花は冷静にそう返した。
 小さく手をあげて応えてくれただけでも大きな進歩かもしれない、と駆琉が思ってペダルを踏んだとき、ほとんど聞き取れないほどの声で彩花は続けたのだ。

「期待してるね」

 それは。
 「明日会えること」だったのかもしれない。
 それとも全く違ったことに対して、彩花はその言葉を告げたのかもしれない。

 けれど、自転車を漕ぎ出した駆琉は、彩花のその小さな声が「奏 駆琉が50メートル泳いでくれること」に向けられている気がした。
 閉館間際のプールの中で、駆琉が精一杯の思いを込めて告げた「頑張るから」という気持ちに、彩花が応えてくれたと思った。

『聞こえてないよね』
 彩花の心の声が落ちてくる。
 その声を聞いて、振り返るつもりのなかった駆琉は勢いよく振り返った。
 彩花は既に駆琉に背中を向けて歩き出していて表情は見えない、けれど駆琉は叫ぶ。

「安西さん! 僕、頑張るからね!」
 弾かれたように彩花が振り返った。
 街頭の灯りに照らされた彩花の、クールで完璧で気取っている美しい顔が、耳まで真っ赤になった気がした。

「ああもう、安西さんって、可愛い」
 自転車を走らせながら、駆琉は一人で呟いたのだった。