君の声が聞こえる



「私を信じる?」

 と、彩花は言った。
 何もかもが非現実的で、違う世界に迷い込んでしまったように駆琉には思えた。

 自分と彩花以外誰もいないプール。
 耳鳴りがするほど静かで、蒸し暑い。
 生温い水が身体に巻き付き、水が揺れてぶつかる音がする。すぐ近くに誰かがいるような気配がした。
 彩花が駆琉の手を握る。今までずっと姿が見えなかった「運命の人」が両手を握り、駆琉のすぐ前にいる。

(不思議だな、ずっと前から知っていた気がする)
 プールの中、コースの中腹で駆琉と彩花は両手を繋いで立っていた。
「私を、信じる?」
 彩花がもう一度、尋ねた。
 それに対する答えなんて、もう決まっていた。

「信じるよ」
 すぐ前にいる彩花が、薄く微笑んだ。
 うっすらとゴーグルの痕が残る顔をしっかりと駆琉に向け、彩花は言った。
「じゃあ目を開けて。私がいるから。絶対に君の手を離さないから」
 彩花が手を握る。
 駆琉と彩花はゴーグルを外し、プールサイドにあるベンチの上に置いていた。
 今からゴーグルもないまま潜って、水の中で目を開けるのだ。それを考えただけでゾッとした。

「大丈夫だから」
 駆琉の顔が青ざめたことに気付いて、彩花がそう声をかける。駆琉は黙ったまま、頷いた。
 彩花の世界を知りたい、と言ったのは自分だ。
 何故彩花は水の中が怖くないのか、水が怖くないのか、水泳が好きなのか。
 それを知りたい、と願ったのは自分で。彩花はそれを聞くと「見せてあげる」と言ってプールの中に駆琉を引き入れた。
(安西さんの世界を、知れるんだ)
 ほんの少しだけ我慢すれば。

「ずっと手を離さないから。君の手を握っているから」
 ほんの少しだけ、ほんの少しだけ。
 恐怖に打ち勝とう。
 負けることになったって、隣には君がいる。
「私を信じる?」
 それは何度目だろう。
 そして何度でも、駆琉は答える。
「もちろんだよ」
 彩花の合図で、駆琉は一気に水中に潜った。

(怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
 耳鳴りがする。
 陸の上では感じたことのない圧力が、はっきりと自分にかかっていることがわかる。
 水がぶつかる音、揺れる音、心臓の音が襲いかかってくる。どうしようもない。苦しい。怖い。
 真っ暗な世界。彩花の心の中ではあんなにも静かで何も怖くないのに。
 怖い。何かがいる。何もいない。
 死んでしまう。苦しい。怖い。助けて。

『ねぇ大丈夫だよ』
 パニックになって、恐怖だけがぐるぐると回る駆琉の頭の中に声が落ちてくる。
 ぎゅう、と誰かが駆琉の手を握る。強く、強く。握り締めてくれる。
『私がいるから。絶対に君の手を離さない』
 怖いものばかりのこの真っ暗な駆琉の世界で、彩花の声だけが太陽みたいに輝いているように思えた。
 彩花が手を握ってくれる。
 ドクドクと、耳のすぐ近くで聞こえる心臓の音。水がぶつかる音、水が揺れる音。
 ただただ襲い来る恐怖を、彩花の声が拭い取ってくれる。

(ああーーー……そうだ、安西さんがいる)
 こんなに恐ろしい世界でも、自分は独りではない。
 駆琉は彩花の手を握り返しながら、そう思った。彩花が心の中で、駆琉に告げる。
『目を開けて。私を信じて』
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い、けど)
 けれど。
(目を開けたら、安西さんがいるんだ)
 独りじゃない。
 そう思ったら少しだけ恐怖が薄れたような気がして、駆琉はゆっくりと目を開けたーーー……彩花が笑いながら、駆琉を見て人差し指を上に向ける。
 上を見ろ、と言っているんだ。駆琉は何も考えずに上を見た。


心臓が動きを止めた
キラキラ、キラキラ。

自分の口から抜け出した呼吸が泡になる
宝石に閉じ込められたみたいな、
余りにも美しい世界。

現実の世界とは全く違う、
キラキラと輝いて揺らめく世界。


(…………凄い)
 これが彩花の世界。
 駆琉が怖いと思っていた全てが、美しさに塗り替えられる。
 水がぶつかって輝く、水が揺れて煌めく。何処にでもあるプールの、もう随分と古い電気の光が水を通して、水中を宝石の世界へと変えていた。

(安西さんはこんな世界にいるんだ。この世界を自由に進む術を持ってるんだ)
 美しい世界。
 彩花の心の声で何度も何度も聞いてきた、真っ白で何も怖いものなんてない世界。
 煌めく、全てが。
 何も邪魔してこない、自由な世界。

「凄い、凄い、綺麗だった」
 立ち上がった駆琉は、息を整える前に叫ぶように告げた。同じく立ち上がった彩花が「うん」と大きく頷いて、右手を天井に向ける。
「どうしてあんなに綺麗なんだろうね、ただの水なのに。不思議で、綺麗で、静かで」
 駆琉は何故か、彩花のその声を聞いているだけで泣きそうになった。
 本当に、本当に彩花の世界は綺麗だった。どんな宝石よりも綺麗だと思った。
 彩花が出会ったばかりの自分に、こんなにも美しい世界を見せてくれたことが嬉しかった。
 彩花が水泳を好きで、自分も彩花と同じものを美しいと思えたことが酷く嬉しいと思えた。
 そしてあんなにも美しい世界を彩花が泳ぐことが、本当に本当に、美しくて愛しいと思った。守りたいと思った。

(ああ僕は、この人のことが好きだ)
 水泳を愛しているこの人が好きだ。
 美しい世界を純粋に愛しているこの人が好きだ。
 美しい世界を、何の躊躇いもなく見せてくれるこの人が好きだ。
 美しい世界で泳ぐ、この人が好きだ。

「本当にありがとう」
「な、んで、泣くの?」
 彩花の戸惑った声がした。