君の声が聞こえる

『だから彩花が水泳をやめたままならば、それは彩花の意思ってことでしょう。もし彩花が水泳をまた始めたなら……私は、どうして、あの時……親友を応援してあげれなかったんだろうって思う。苦しいときにこそ彩花の気持ちを聞いて、応援してあげるのが親友なのに。私が憎いって思ったから、彩花に「やめれば?」ってすすめたと、認めることになる……だから私は……』

 それ以上、希子は何も言わなかった。
 本当に本心で、100%の誠実な気持ちで彩花にそれを言ったわけではないからこそ苦しくて。
 彩花に皆が「才能がある」、「どうしてやめたの?」、「また水泳を始めて」と言う度に、私が皆から彩花の才能を奪ったのだ、と希子は苦しむ。
 けれどーーー……駆琉は黙って希子の話を聞いていたが、口を開いた。

『でも僕は、もし安西さんが水泳を好きなら泳いでほしいって思うよ』
 彼女の泳いでいる姿をほとんど見たことがない、けれどあの真っ白な世界がとても好きだから。とても居心地が良くて、何も怖くない世界だから。
 きっと彩花も水泳が好きだと、泳ぎたいと思っているに違いないと駆琉は思った。

『根山さんはどう?』
 希子の真ん丸な目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
 身体のわりに大きな手で涙を拭い、希子は震えた声で告げる。

『私も、彩花が水泳を好きなら
 泳いでほしいって思う。泳いでほしいの』

 彩花がまた水泳を始めたら、自分を許せないかもしれない。
 どうしてあの時、自分は彩花に「頑張ろう」と言えなかったのだろう。
 ほんの少しでも彩花を「憎い」と思ってしまった自分が大嫌いだ。

 とか。
 たくさん言い分けを盾にして、親友という立場を利用して彩花から水泳を切り離すことはできるけれど。
 希子だって、心のどこかでは望んでいた。彩花がまた、水泳を始めることを。
 自分にも、プレッシャーにも、どんなものにも負けないで泳いでくれることを。

 そして駆琉は、希子のその言葉を聞いて彩花に問うたのだ。
 「水泳がもう嫌いですか」と。
 彩花は口にこそ出さなかったけれど、それでもはっきりと答えた。
 「水泳を愛している」と。

(僕にはすごく、あの声が綺麗だと思ったんだ)
 もし声に色があるとすれば、あのときの彩花の心の声は無色透明。
 嘘偽りのない、本当に心の底から湧き出した感情が言葉になったみたいに駆琉には聞こえた。
 だからあの瞬間、自分が水が怖いとか泳げないとか全て忘れてしまったのだ。彩花がまた泳いでくれるならば、何だってしてあげたい、と思った。
 本当に、何でも。
 何だって出来ると思った。

「ねぇ、安西さん」
 営業終了間近のプールは静かで、駆琉の声はそれほど大きくなかったというのにひどく響いた。
 プールにはほとんど人はいない。泳いでいるのは彩花くらいなもので、駆琉はタオルを肩にかけたまま、ベンチに座ってじぃっと彩花を眺めていた。
 スタッフの数人がプールの外で片付けを始めている、ちょうどプールサイドにあがってきていた彩花は何も言わなかった。けれど、その澄んだ瞳が「なに」と告げているように思えた。

「僕のために泳いでくれる?」
 彩花は唇を一文字にし、拳を作る。
 その途端、駆琉の頭の中には彩花の心の声が落ちてきた。その心の声と同じことを、ベンチの近くに立つ彩花が呟く。
「私は、もう誰かのためには泳がない」
 現実の彩花はそれ以上、何も言うことはなかったが心の声は続く。
『苦しくなるから。もう苦しみながら水泳なんてしたくない』
(根山さんが「苦しみながら泳ぐ意味がある?」って、言ったもんね。わかるよ、その通りだと思う、苦しみながら泳ぐ必要はないよ。でもーーー……)
 でも。

『まだ苦しい』
(何でまだ、安西さんは苦しそうなの?)
 彩花は泳ぎ終わると、いつも苦しそうに眉を寄せる。駆琉はそれに気付いていた。
 でもどうしてそんなに苦しいのか。苦しそうなのか。
 それは彩花本人にもわからなくて、わからないから彩花を苦しめる。
(助けたいな、どうにかしたい。だってこんなに、こんなに安西さんは水泳が好きなのに。愛してるのに)
 過去形にはしてほしくない。
 けれど駆琉が出来ることなんて少なくて、駆琉は水が怖いと思う自分がイヤになった。

(あ、そうだ)
 ふと、思っても見なかった考えが頭をよぎる。
「安西さんは、どうして水の中が怖くないの? その理由を知れば、僕も少しは怖くなくなるかもしれない」
 ぱちぱち、と彩花が何度かまばたきをして駆琉を見た。