君の声が聞こえる

『彩花は、泳げなくなったんです。泳げば泳ぐほどにタイムが落ちていって、みんなの期待は大きくなって。でも泳ぐぼどに遅くなって、みんなの期待を裏切って』

 あの日、ファミレスでそう言った希子の声が甦る。
 駆琉はプールに入らず、プールサイドのベンチに座って彩花の泳ぐ姿を見つめていたーーー……何もかもが美しいクロール。
 もうここのプールの営業時間が終わりに近付いているせいか、専用のコースで泳ぐ人の姿は随分と少なくなった。
 あれだけ騒いでいた小学生も、水の中を歩いていたおばちゃん達もいない。会社帰りのサラリーマンらしき人達が数人、歩いていたり泳いでいたりとマイペースに過ごしていた。

(うるさくないけど、静かすぎるわけじゃない。プールって不思議なところなんだ)
 夕方の騒がしいプールとは違う音に、プールは包まれている。
 水の音、塩素の匂い。耳が痛くなるほどの静寂に包まれることはない、それでも静かだと駆琉は思った。
 彩花の心の声がする、呪文が聞こえる。彩花は周りのペースに飲まれることなく、自分のペースでぐんぐんと泳ぎ続けていた。
 心地の良い呪文が聞こえたと思えば空白の時間が落ちてきて、駆琉はただ彩花の心の声に身を任せた。

『あまりに彩花が苦しそうに泳ぐから、私が言ったんです。「もう水泳なんかやめちゃえば?」って』
『そして彩花は本当に、中3の夏に水泳をやめました……受験勉強を理由にして。花園高校も、行くのをやめて』

 あのときの希子の顔色は酷く悪かった、まるで自分のことのように彼女はそういう。
 彩花の泳ぐ姿は、他の誰とも違っている。
 サラリーマンらしき人達の中で彩花が泳ぐから、その違いが水泳のことなんてまるでわからない駆琉にもはっきりとそれが理解できた。
 彼女の泳ぐ姿は本当に美しい、外見的な美しさだけではなくて動作が、手の動きが、指先が、キックが美しい。
(それでも安西さんは水泳をやめたんだ)

『水泳部のない高校を選んだ時点で、彩花はもう水泳を諦めたんですよ』

 希子はそう、願っていた。
 こんなにも美しく泳ぐ彩花が水泳をやめた、と。水泳をやめている、と。彼女はもう水泳を諦めた、と。
 翔琉が「どうして」と尋ねたのは、それが希子の願いだとわかったから。
 あの日、希子は泣きながら駆琉に懺悔をした。自分が親友に犯した罪について。

『私は彩花の幼馴染みだから、親友だから。彩花がどれだけ水泳が好きで努力してきたかってことを知ってるの。彩花は本当に、本当に努力した。だから中学1年で凄い記録を出して有名になったのは当然の結果だと』
 そこで希子は言葉を区切り、大きく息を吐き出した。
 放課後のファミレスは騒がしかった、いま目の前に広がる静かなプールとは正反対なほどに。
『結果だと、そう思った。思ったはずだったのに』
 カラン、と氷が落ちた。
 あのファミレスは夕方のプールとは比べられないほどに騒がしかった場所だったはずなのに、駆琉の記憶の中でそこはとても静かな場所だった。

『彩花がみんなから期待されることが羨ましくなったの。彩花の全てにみんなが注目して期待されて、それをどれだけ彩花が嫌がって悩んでいたことも知ってたのに……羨ましかった。私はこの身長だから、バレーボールで全く期待されたことがなくて、注目なんてされなくて』
 彩花は本当に苦しんでいたし、注目されることを嫌がっていた。
 期待は重圧に変わり、注目は鎖のように彩花を縛り付ける。
 泳げば泳ぐほどに記録は悪くなって、それはみんなからの期待を裏切り続けることだったーーー……けれど誰もが彩花に「次こそは」と期待する。恐ろしいほどに。

『私は3年間、一度もレギュラーになれなかった。それが正式に決まった日、凄くイライラしてたの。彩花はずっと苦しんでた、頑張ってることも知ってた。けれど私だって頑張ってたの』
『ズルい、って思った。彩花だけが期待されて、結果が出なくてもみんなが彩花に期待し続ける。それなのに彩花はその期待に苦しんでる』
『そんなに苦しいならもう、水泳なんかやめちゃえば? って言ったのは本心。苦しむ彩花の姿を見たくなんてなかった。でもーーー……』

 幼馴染みだから、親友だから。
 本当に彩花が苦しむ姿を見たくなかったから。

『ほんのちょっとでも、1%でも、
 キコは彩花が憎らしくてそう言ったの』

 99%が「彩花のため」であっても、1%が憎くてそう言って。
 彩花は本当に水泳をやめてしまった。
 そして彩花はにっこりと笑い、希子に言うのだ。
『彩花が言うの、疑ってもいない顔で。「あの時、希子がそう言ってくれたから決心できたよ。ありがとう」って。私は本当に彩花を心配してたけど、苦しんでる姿を見たくなんてなかったけど……100%じゃない。憎いって思った。彩花が羨ましくて仕方なかった』
 だから必死で「理由」を探したの、と希子は言う。

『みんなに聞いたんだよ、彩花の水泳のこと。彩花に水泳の才能がなくて、泳ぐのが下手だったら、私が言ったせいで彩花が水泳をやめた理由にはならないって思って。でもみんな口々に言うの』
 もしも彩花が泳ぐのが下手だったら、上手くならないからと理由をつけて水泳をやめたと言い訳できる。
 彩花に水泳の才能がなかったら、才能の限界を感じたとか理由をつけることができる。

『彩花ほど水泳が好きで、水泳からも愛されて、才能に恵まれていた子は知らないって。今は少しだけスランプでも、すぐに記録は伸びたはずだってーーー…』
 けれど誰もそんなことは言わず、残されたのは希子が抱える罪悪感と水泳をやめた彩花だけ。

『ねぇじゃあ私は何をした?』

 彩花は水泳をやめた。
 自分が言ったことが引き金になって。
『素晴らしい才能を私が潰したの? 彩花の未来を? 彩花から水泳を奪ったの? 私がもし、本当に、彩花のことを考えていれば彩花にもっと違う言葉を投げられたはず。彩花が水泳をやめることなんてなかったかもしれない』
 だからもう、希子は願うしかなかった。
 彩花は水泳をやめた、水泳を諦めた、けれどそれは私のせいじゃない。
 苦しい思いをして水泳をやめたのは彩花なんだから私は悪くない、彩花は自分の意思で水泳をやめた。
 私の言葉のせいじゃない、彩花は水泳を嫌いになったのだ、そう信じたかった。