「……そんなこと、ないと思う」
結局、言葉に出来たのはそれだけで。
私はそれきり、口を閉ざす。そうすると叶多も黙り込んで、私たちは無言のまま、歩き続けた。
しばらくすると、川の上流に差し掛かるのか、緑が深まってくる。蝉の声も、一歩歩む事に大きくなる。包み込まれるような感覚さえ覚えて、いっそ覆い隠して欲しいと思った。下らない悩みを抱える、ちっぽけな私自身を。
蝉の音しか聞こえない、"沈黙"。それを破ったのは、叶多の方だった。
「……この川、昔は蛍がいたんだって。知ってた?」
遠慮がちに投げられた問いに、私は首を捻る。
「蛍? 聞いたことないけど……」
全くの、初耳だった。いくら人の来ない川だからって、蛍が出るとあらばさすがに話題になるはずだ。
それだけ昔の話なのだろうか。一体いつ頃の話なのだろう。
「そうかもね。いたといっても、もう50年以上前の話らしいから。貴明さんと芳子さんが若い頃、見れたんだって」
貴明さんと芳子さん、とは、叶多の居候先で、一応親戚ということになっているご夫婦のはずだ。かなりご年配だし、なるほど、そういうことなら私が知らないのも頷けた。
「今、その蛍を復活させようっていう活動が起こってるんだって。……ああ、これだ」
そう言いながら、叶多が指差したのは、道端にある町内会の掲示板。


