ダム湖公園を後にして、また山林道を走り抜け。有料道路も使い、小一時間くらいで風景が次第に変わって来た。
 温泉郷へようこそ、と大きな看板が道路際にそびえ立ち、ホテルや観光案内の看板が右や左に。日常とは違う期待感にワクワクしてしまう。小説のクライマックスに差し掛かって、その先へと心を逸らせる瞬間と同じ。
 
「お前、温泉が苦手とは言わないだろうな」

 渉さんの質問に、車窓から振り返って答えた。

「それはたぶん無いです。学校の修学旅行以来ですけど・・・」

 小首をかしげ、記憶を辿りながら。

「あの頃は温泉の良さとか、きっと分かってませんし。初体験に近いかも知れませんね」

 小さく笑みを泳がす。

 家族で旅行をした事は当然ながら一度も無かった。休日も長い休みも、殆ど家には居なかった父。お盆とお正月は母の実家で二泊程度。日帰りで遊園地だとか、海だとか、夏休みの絵日記に描けるような家族の思い出はただの一つも。
 母に言われるまま、行ってもいない花火大会やプールの様子を書く嘘も、いつしか自分で適度に織り交ぜるようになった。自分には無くて当たり前のものだったから、クラスメイトがどこどこに行った、と思い出を楽し気に披露するのを羨ましく感じた事もない。

 与えられないものは望まない。それがわたしの、摂理(ことわり)だった。
 これが人生で本当に初めての、行きたいと心から思えた人との旅。初めて・・・心に残したくなった思い出。

 24年間も生きて来て。生まれたての赤ん坊みたいに、貴方から“初めて”を沢山もらって。これからも少しずつ増えていって。いつか。生き直せた気持ちになるでしょうか。