その夜も遅く、マンションに戻った渉さんを玄関で迎えた時。
 藤君から疾うに報告を受けただろう、彼の眼差しが。わたしを見つめて僅かに翳ったのを見逃した振りで。

「・・・お帰りなさい。お疲れさまでした」

 小さく笑むと、黙ったまま、煙草の匂いが染みついたシャツの胸元に抱き込まれた。
 お酒と香水も入り雑じる、いつの間にか慣れ親しんだ彼の匂い。いい子にしてたか、と甘さを潜めたいつもの声は聴けなかった。

 大きな掌に頭の後ろを掴まえられて、背中に回る腕に次第に力が籠もっていく。伝わってくるのは、愛情というより。・・・何かと闘っているような烈情。それを押し殺すように、ぐっと堪えている気配。このまま抱き潰されるかと思ったほど、息苦しさに身じろいでしまうと。渉さんは力を緩めても、わたしを離そうとはしない。

「渉さん・・・?」

 顔を上げる。
 眉間に苦渋の気配を漂わせ、貴方は一瞬だけ惑うように眼差しを揺らした。とても辛そうで。たまらなくなって思わず、わたしは渉さんの頬に触れる。その指を貴方はきつく握って。

「・・・・・・済まんな・・・」

 低く。絞り出すように。
 何に対しての言葉だったのか。わたしは問わなかった。今はこれ以上。そう思った。 

「・・・お風呂、沸いてますから。先に入ってくださいね」

 何も訊かずに。造りものじゃない心からの微笑みが、わたしに出来る精一杯だった。