「うわぁ・・・」
 その光景を見た瞬間に黒木さんはそう感嘆の声を漏らす。その声の響きには心の底からあふれ出る何かが思わず口に広がったような優しい音色だった。
―――タンタンタン。
 店のシャッターを叩く雨音。
 店の照明をつけていないので、そこは薄暗い海底洞窟のようだ。だけどその洞窟に眠るものを見ている黒木さんの瞳には、間違いなくキラキラと光っている物が映っているのだろう。
「いま、電気をつけるよ」
「・・・うん」
 黒木さんはそう頷き、そっと白い靴下を冷たい海に浸すようにそろりと店の土間に下りた。僕も土間に下りて電気をつけるとそこには長年、埃だけではなく誰かの思いが堆積した静かな重みが、ふっと軽くなる。
 黒木さんは白い靴下のまま土間からシャッターが閉じている窓の方へと歩き出すと、そこに眠った一台のミシンを慈しむように触った。
「古いけど・・・ピカピカ」
黒木さんはくすぐったそうに微笑んで、白くて細い手でミシンに触った。
「まだ動くよ」
「本当に?」
「嘘ついてどうするの」
 僕は苦笑する。
 彼女が触っているのはウチで一番古いミシン。祖父が使っていた物で、磨くとニスを塗った黒檀のように光り輝く。メーカーは日本で有名なジャノメミシンだ。ミシンはこれ以外にももう少し真新しいものが二台。後は裁断や型紙を作る作業台と家側にある壁の棚に色とりどりの糸が巻き貝のように眠っていた。
 彼女は黒いショートカットの髪をふわりと漂わせてこちらに振り向く。
「ねぇ、西郷君」
「ん?」
「貴方のお爺様はこのお店を大事にしていたのね」
「そうだね。頑固一徹の職人気質の人だから道具は全部ピカピカ。でも今は誰も使っていなくて、ちょっと可哀想かな」
 ほんの少しの悲しさを含めて僕はそう言っていた。
 僕がもっと小さな頃、居間でテレビを見ていると祖父と祖母のカタカタ動かすミシンの音が本当に心地よかった。それが中学生に上がる頃にその音は聞こえなくなっていた。
 彼女はサっとミシン台の丸い木の椅子の埃を取るとそこに座る。ピアノ演奏家がコンサートの前に祈るような顔で、黒木さんは目を閉じる。そして雨音に耳を澄ましながらミシンの音を口ずさんだ。
―――カタカタカタ・・・
 僕はそれを居間と店の上がり框に座って静かに聞く。
「お兄ちゃん」
 振り向くと僕の後ろには麦茶と茶菓子を乗せたお盆を持つ香奈がいた。
「香奈か」
「うん、わ、私、お邪魔だよね」
「いや、大丈夫。あの人は気にしなくていいよ」
「え・・・でも彼女じゃないの?」
 香奈が少し驚いた顔で僕を見ていた。
 彼女か・・・。四日前なら全力でお願いするところだったけどいまは別にいいかな、と僕は気軽に香奈へと笑いかけた。
「クラスメートだよ」
「そ、そっか。そうだよね」
 僕と香奈がそんな風に話していると、黒木さんが話に割り込んでくる。
「ねぇ、西郷君」
「何? 黒木さん」
 彼女は少し顔を赤らめて伏し目がちに聞く。
「クラスメートから・・・お友達にならない?」
 確かにお友達宣言というのを口にすると恥ずかしい。彼女はそういった事を真剣に言ったことがないんだと思う。黒木さんは人気者で自分から言わずとも向こうから友達になりたいと言われ続けたのだ。
「それでここを使おうって魂胆でしょ?」
 その言葉で少し泣きそうな顔になっていた。僕も少し意地悪しすぎたかと思ってしまいそうなほどだ。
「そ、そんな・・・それも確かにあるわよ。でも・・・私の秘密を話せるが相手が出来たことが一番嬉しいの・・・」
 彼女は精一杯の言葉を絞り尽くすように言った。だから彼女にここまで言わせた僕は、ちゃんと自分の誠意を伝えなければならない。
 僕は彼女に微笑んだ。
「ならウイッグ被って」
「え?」
 いきなりウィッグを持ち出されて彼女はキョトンと僕に目を向けている。
 僕は自分の変態を彼女にさらけ出す。
「実は、僕がオタクだってのは嘘で、黒木さんがコスプレが趣味なんて知らなかった。僕はただの黒髪ロングヘアーの変態なんだ。髪を切る前の黒木さんの黒髪ロングヘアーに欲情していたんだよ。今日、ウィッグをプレゼントしたのは、髪の長い黒木さんを取り戻したかったから」
 彼女は真っ赤になって自分の身体を抱きしめるようにコチラに牙を剥く。
「よ、欲情って・・・へ、変態!」
「うん、黒木さんと同じ変態なんだ。だからこれでおあいこの友達」
 黒木さんはしばらく僕を怪訝そうに見ていたが、小さくため息を吐く。
「・・・その言い方はどうかと思うけど・・・わかったわ。これは私達だけの秘密よ」
 僕はその秘密に頷いた。
「もちろん」
 ここに、僕と黒木さんの変態同盟が結ばれた。