窓を叩く雨音。
 誰もいない理科室。
 僕は緊張のあまり何度も生唾を飲み込んで胸を押さえる。少し浮き出た胸骨を触って、この数日で自分がずいぶんと痩せたことに気がつく。最近はずっと食事にも手が付かなかった。
 梅雨入りをしたばかりの天気はパラパラと降る僕の好きな雨。窓ガラスには雨の水滴がときおり音を立てて横殴りに吹いる。規則的なその音がまるで潮騒のように耳に心地よかった。雨の音に耳を澄ませば、心臓がばくばくと脈打つ音がそれに紛れて少し落ち着いてくる。
 僕は、埃っぽい理科室の窓にキュキュと音出しながら文字を書く。
 『黒木《くろき》香美奈《かみな》』
 待ち人の名前、その響きでさえ僕の心を満たしてくれている。
 その待ち人とは、僕の好きな人だ。
 行動起こした三日後に僕は、彼女に告白めいた手紙を送っていた。
 『放課後、理科室に来てください。渡したい物があります。西郷信也』と、こんな質素でなんの面白みもない文章。流石の僕である。だから一人でドキマギしながら誰もいない理科室で彼女を待っていた。
 ガラガラと理科室の戸を引く音が鳴り、僕は慌てて文字を消しながらそちらの方に振り向いた。
 その素晴らしい名前の持ち主が現れた。
 黒木さんは、手紙で急に呼び出した僕を不審な目で見ることもなく、微笑みながら入って来た。穏やかな口元だけの微笑み、こんな僕まで包み込んでくれそうな優しい瞳、白い肌とすらりと伸びた手足。女性にしては身長が高くて僕とほとんど一緒だ。真っ白なセーラー服は彼女が着るだけで、薄暗い室内だと言うのにまぶしかった。
 だが、一部だけは僕は痛々しくて目にすることが出来ない。
 その痛々しい姿が自分でも信じられない行動に駆り立てた。
 僕が百貨店の包みを手に持ちながら茫然と彼女を見ていると、またガラガラ音がして、戸が閉まりきった。
 戸が閉まり、外から聞こえてくるくぐもった生徒の声と雨音だけが残る。
 僕たちは一瞬の沈黙の後で目と目が合った。それは火花が弾けるような運命的なものじゃなくて、彼女が僕の言葉を待っているだけの事務的な視線。黒木さんは僕が言葉を失っているのを見て、小さくて形の良い彼女の唇が淑やかに開く。
「西郷君。こんなところに呼び出して、どうしたんですか?」
 このとき僕は初めて黒木さんから名前を呼ばれた。それだけで心臓がヒートアップして、嵐のように心が掻き乱れる。その混乱する頭を息を整えて、必死になって落ち着かせる。
 別に告白をするわけじゃない。
 僕はただ黒木さんにプレゼントを渡すだけ―――。
 そう言い聞かせていると、黒木さんが身を乗り出すように僕の手を覗き込んでいた。その目は確かに僕の包みに向けられている。
「もしかして、それが渡したいものですか?」
 そうです、と言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。
 なぜなら、僕が黒木さんをちゃんと見たからだ。
 この時になってようやく僕は自分が渡そうとしていた物の恐ろしさに身もだえしてしまった。
 僕は、あの朝に黒木さんが失ったものの穴埋めをしようとしている。僕はとてもそれが好きで、それをなくした彼女は、まるで翼を失った天使のように思っていた。だから僕はその翼をもう一度彼女に取り戻して欲しかった。
 でも、それは彼女が自分で捨てた翼。彼女はきっとそれをごく普通のオシャレの一部だと思っている。
 それを勝手に天使の翼だと思い込んで、僕が押しつけるのは間違いだ。
 それにこんな物を貰っても彼女は気味悪がる。絶対に。
 僕は自分の異常性と変態性をこの時になって初めて目の当たりにして、慌てている包みを後ろに隠した。こんな大爆発起こすような危険物を持っている方がどうにかしている。開ければ爆発して僕は社会的に、学校的に爆死する。それもずっと頑張って隠してきたのに自分から自爆するなんて本当にどうかしている。
 そう考えると、急に僕はいつもの西郷信也を取り戻す。彼女の姿を見ていると、熱に浮かされていた自分が一気に冷めて、今度は自分の秘密を知られる恐怖で身体が震える。
「や、やっぱりいいです。なんでもないです」
 僕は首を横に振って、彼女から逃げようと一歩踏み込む。
 だが、僕の逃げ道に立ちはだかるように微笑む黒木さんがいた。
「ちゃんと渡してください。お断りはしますが、西郷君の頑張って用意してくれた物です。一目見てからお断りしますよ」
 そう言って黒木さんは優しく微笑んでいた。
 どうやら最初から僕の勝ち目はなかったようだ。だけど僕はこれを告白だなんて思っていない。いやむしろ、この爆弾を前に勝ちとか負けるとかなんて全く関係ない。ここはどうにかしてこの包みを彼女から隠さないと。
 だが目の前には黒木さんがいるので、逃げ場をなくした僕は一歩後ずさりする。
 黒木さんはそれを見て一歩近付く。
 また僕は後ずさり、理科室の窓にゴンと身体をぶつけた。
 それ見て少し黒木さんが笑ってさらに五歩近付いてきた。
 それはもう手を一杯に伸ばせば、僕の手と触れ合うだけの距離しかない。
 そこで雨音が耳元でパラパラと鳴っていた。
 黒木さんはちょっと小さくため息を吐くと、ぐずつく幼稚園児を諭す保母さんのように朗らかで優しい笑みを浮かべる。
「西郷君。どんな物でも笑ったりしません。それに誰にも言いませんよ」
「本当ですか?」
 僕はその微笑みで少し心が落ち着いてくる。
 僕は秘密を守る、という言葉を大事にしている。それは僕にとって固い結束を意味していた。
「はい、もちろんです」
 黒木さんは微笑みながら頷く。
 その優しい笑みを見て、僕は胸をなで下ろした。
 黒木さんは、クラスメート達といっても悪口を言わない。それに誰かを悪く言うと、そっと角が立たないように注意をしてクラスをまとめてくれる。高校一年生の時のクラスは風当たりがきつかったけど二年生になってからは随分と過ごしやすい。それも黒木さんが関わっているからだと思う。
 そんな人なら信用してもいいかもしれない。
 それに受け取らなければ証拠も残らないし大丈夫かと、ふっと息をついた。
「誰にもいわないでください」
「はい、言いませんよ、西郷君」
 その言葉で僕はすっかり安心してして、後ろに隠していた包みを彼女の目の前で開ける。ガサガサと音を立てて丁寧に梱包された包みが解かれ、その素晴らしい一品がこの世界に現れた。
 黒くて長い絹のような手触り。
 彼女のサイズが分からないのでフリーサイズにしている。本来ならオーダーメイドが良かったのだが、それは仕方がない。その代わり質感や光沢といったものは最高級の物。百貨店でも一番高いものだ。僕の貯金の半分はこれに消えている。
 僕は少し震える手でそれを黒木さんの目の前に差し出していた。
 「え?」
 小さく彼女が息を飲む。その大きな瞳が見開かれた僕が持っているものに注目している。
 彼女は息を飲んだ後、なぜか警戒するような瞳で僕を射貫く。
「これは・・・ウィッグですね?」
「はい。ウィッグです」
 僕は何とか短く答えた。
 僕が彼女に用意したプレゼント。
 それはウイッグ。いわゆるカツラだった。
 何を隠そう僕は、黒髪ロングヘアーの変態だ。先日、僕の大好きだった黒木さんの黒髪ロングヘアーはバッサリ失われて、見るも耐えないショートカットへとなり果てている。失われた天使の翼を取り戻して欲しくて、僕はこの高級カツラを彼女に渡したかったのだ。
 黒木さんはじっと僕を見ていた。
 その強い眼差しで僕は途端に不安になってくる。
 真っ先に思い浮かべるのは、このことを学校で黒木さんが言いふらすこと。もし、そうなれば僕の学校生活は絶望的だ。学年一の美人である黒木さんに、自分の性癖まるだしのカツラを渡した変態。
 見える未来は、魔女狩りの火あぶり。
 僕のような変態は、この異端者というレッテルに悩まされ、異端者として火あぶりにされるのに恐怖している。ときにそれを歯牙にも掛けず、自らの道を行く猛者達もいるが、僕にはそんな真似ができない。
 ダメだ。
 逃げよう。
 逃げて明日のことを考えよう。明日から学校に行くかどうかを真剣に考えてよう。
 そう考えて僕は、慌ててカツラを引っ込めようとする。
 だが―――。
「待って!」
 がしり、とカツラを持っていた手を掴まれた。
 そこには見たこともないような顔をしている黒木さん。
 その微笑みから遠い、鋭い目が僕を睨んでいる。
 彼女は一度大きく息を吸い、問いただすように口を開いた。
「どうして私の趣味がコスプレだって知っているんですか!?」
 その瞬間、僕の中の黒木さんは天使から人間になった。